後期高齢期を迎え、医師から体温、体重、血圧ば毎日定期的に測定し、記録するように勧められています。そこでほぼ毎日それぞれの計器を使って、測定しながら記録をするように心がけています。また一年に二回ぐらいの間隔で血液検査も行っています。そして驚くべきことにこれらの検査結果がすべて数字になって表示されます。医師が診るのもその数字が、基準よりも高いか低いかだけです。そこで服用する薬も決まってきます。数字によって健康が左右されていることに驚きます。特に血液の細かい項目まで、正確に計測ができるようになったことは、ありがたいと言うべきかも知れませんが、健康状態だけでなく人生そのものが、数字によって管理されているように考えると少し複雑です。
というのは子どもの頃から、いろんな数字に一喜一憂しながら過ごしてきたことを思い起こすからです。小学校ではテストの結果に関わらず、楽しく過ごしていました。しかし中学、高校になると、やはりテストの結果に追われ、成績によって人間の値打ちも決まってしまうように思われました。さらに社会に出てからは、毎月に報告される営業成績を睨みながら、電卓をたたいていました。成績を上げられなかった者の恨み節が心の底に残っているのかも知れません。それにしてもテストや営業成績から解放された現在、高齢者の最大の関心事である健康状態で、またしても数字に支配され、一喜一憂しなければならないのは、喜ぶべきか、悲しむべきか複雑です。
ただ聖書を読んでいて、人間と神との間には、時間の経過の受け止め方に大きな違いがあることが分かりました。旧約聖書には、「あなた(神)の目には、千年も昨日のように過ぎ去る」と言うことばがあったり。このことばを受けて新約聖書では、「主(神)の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と記されているからです。人間の間では、千年と一日では比較できないほどの違いがあります。しかしこれら聖書の言葉から神の判断基準と私たちの判断基準の大きな違いを教えられます。しかしこの神の判断基準を受け入れるとき、それまでの人生とは違った生き方があるように思います。数字や時間に制限され、それらに追いかけられる人生から解放される思いです。それが人間としての本来の生き方であり、神に愛され、生かされていることを感謝する生き方ではないでしょうか。
(聖書は、詩篇90:4とペテロの手紙第二3:8からの引用)