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六十年の時を隔てて  辻 喜男

六十年の時を隔てて                辻 喜男

 今年4月から、すでに大学生になっていた二人の孫に加え、あと二人も新しく大学生になりました。それぞれが二十歳前後の年齢になり、目標を定め、希望をもって歩んでいることに、喜びと共に一種の羨望のまなざしで見ています。
 私自身の二十歳前後のことを思い出しています。高校はようやく卒業できたものの、大学受験に失敗し、目標のない日々を過ごしていました。そして、成人式を迎えた翌月に、母親が病気で亡くなってしまいました。何とかしなくてはと思いながらも、どうすることもできない中に、さらにこの悲しみが重なりました。しかし、少し前から教会に通っていたことが、後から考えれば希望の光となっていたように思います。
 今の孫たちの元気で楽しそうな境遇を見ながら、私自身果たせなかった夢の実現に向けて、それぞれが歩んでいることに、約六十年前と時代は大きく変わったことに感慨を深くしています。
一人は音大でドラムを叩いています。そしてもう一人は、アメリカの大学に入学してしまいました。あとの二人のうちの一人は、地方都市の国立大学に、広大なキャンパスが気に入ったと寮生活をしています。そして最後の一人は、東京都心で交通便利な私立大に入学しました。
 それぞれの孫たちが夢に向かって進んでいってほしいと願っています。ただそれ以上に嬉しいことは、彼らもクリスチャンとして歩もうとしていることです。私たち夫婦で始まったクリスチャン家庭が、二人の子供に家族が与えられ、私たちも含めて総勢十二人になりました。家族ひとり一人がクリスチャンとして、社会に有益な人材になることを願っています。

「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。」ルカ2:40

 

 

 

 

 

 

2023年03月26日

Good Fridayとイースター  黒田 朔

キリストが甦られたといわれている墓



「Good Fridayとイースター」  黒田 朔
クリスマス・・キリスト教の暦でだれもが知っているお祝いで、神の御子イエス・キリストの誕生を喜び、祝う日ですが、キリストの復活を記念し、祝うイースター「復活祭」は日本でそれほど一般化していません。しかし、イースターこそ日本人だけでなく人間誰もが願い、求めているもので、キリストが預言していた通りに、十字架で死に、三日目に甦り、死は終わりではないことの保証となって下さった日です。イースターはユダヤの陰暦で春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われるため、年によって日付が変わり、今年は4月9日です。
また、イースターの前の日曜日はイエス・キリストのエルサレムに入城に際して群衆が棕櫚の枝を打ち振って歓迎したのを記念し「棕櫚の日曜日」と呼び、木曜日は最後の晩餐となった過ぎ越しの祭りの食事の席上、イエスが弟子たちの足を洗われたのを記念し、「聖木曜日」と呼ばれ、十字架にかけられた翌金曜日は「聖金曜日」英語では`Good Friday’と呼ばれ、アメリカでは祝日となっています。
クリスチャンはこのようにキリストの生涯の最後の一週をHoly Week(聖週間)として記念し、特に、キリストの十字架の死を感謝し、三日目の甦りを復活祭「イースター」と呼んで、喜び、祝います。今年は4月2日から9日までの1週間で、特イースターには先に亡くなった大切な家族を覚え、記念し、写真を飾り礼拝をささげます。また、午後にはハワイからのJames&Mona夫妻を迎え、Happy Easter Fellowshipを開き一般の皆さんを歓迎します。

 

 

 


2023年03月20日

平安を願う人々の史跡 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

幼い頃、考古学が大好きだった私は、エジプトのピラミッドの話や中南米のマヤ、アステカ、インカ帝国の話が大好きでした。今でも歴史的建築物を訪ねる、いわゆる史跡めぐりがけっこう好きだったりします。今年のお正月休みには家族で京都を訪れ、平等院鳳凰堂にも足を運びました。もちろん、クリスチャンですし、まして牧師ですから、参拝目的ではないですよ(笑)。

Wikipedia で調べてみると、平等院は、西暦で1052年=永承7年に、藤原頼通によって開基されたという事です。当時の社会では、末法思想という、いわゆる“世界の終わり”のような思想が広がっていたようで、この世界に極楽を再現しようとして開かれた寺院のひとつであったそうです。実際、訪れてみると、壁画や彫刻、陶器の装飾などには、“あの世”とか“来世”をモチーフにした作品が多く、“天部”と呼ばれる一団が大日如来を讃えて楽器を奏でたり歌を歌っていたりする、そんな光景が形づくられていました。なんだか、キリスト教の終末論、とりわけ、ヨハネの黙示録の世界と、おどろくほど共通するような世界観に、たいへん驚かされました。

世の中に不穏な状況や出来事が増えていく中で、“世界が終わってしまうのではないか”と案じる人間心理(真理)と、だからこそ、来たるべき世界に願うその願いの中身は、人間である限り、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、また、国籍や文化、時代を問わず、だいたい似通ってくるものだな、とあらためて思わされます。

一方で、だからこそ、本当の神様、この世界が終わろうとも、なお私たちとともにいてくださると宣言し、そのようにして下さるイエス様を知っているかいないかは、大きな違いだな、と思います。

約1000年ほど前に、末法思想、キリスト教風に表現するなら“世の終わり”を感じながら、平等院を開いた藤原頼通ならびに当時の人々が、イエス様を知っていたら、きっとまた違った人生観、世界観が広がっていたのではないか、と思いを馳せました。

・・・見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

マタイの福音書28章20節後半、復活なさったイエス様が弟子たちに宣言された、力強く、温かく、愛に満ちたみことばです。

春間近。ちょうど、四旬節(レント)、イエス様の復活を記念するイースターが迫る季節を過ごしています。この春、あなたも、まことの平安を与えて下さるイエス様を心にお迎え下さい。

写真:鳳凰堂↓と十円玉↑。

2023年03月12日

Spring has come  藤井 貴

3月に入り少し空気感が変わり、春の訪れを感じます。

この写真はマンション横の木津川の鴨です。例年3月に群を見かけますが、越冬を終え、北に帰る準備をしているのでしょうか。木津川は旧淀川の一部で、大阪市西区を南に流れる川です。また、旧淀川は新淀川から分流して大川となり、そして堂島川と土佐堀川の両河川に一旦分かれて再び合流し、それが安治川、そして木津川、さらにそこから別れた岩崎運河とそれに続く尻無川下流部へと進んでいきます。都会の真ん中で鴨を見かけ瞬間、ホッとし思わず撮影しました。冬が終わりの近づいていると楽しく感じました。
わたしは子ども頃教会学校で次の聖歌を良く賛美しました。

原に若草が 青く萌え出すと 雪解けの水が 高く音たてる
私達も 春の喜びを歌おう 春を造られた 神さまを歌おう(聖歌652)

今年も、春を感じる喜びとともに、春を造られた神様に感謝したいと思います。そして、主の定めを知るものになれればと思います。

空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。(エレミヤ書 8章7節)

 

写真↑ 木津川で見られた鴨(3月4日)

 

 


2023年03月06日

チャペル川柳   Sumiko.Tsuji

☆信望愛恵みの中に生きている   
いつまでも残るのは信仰と希望と愛 (Ⅰコリント13:13)
  
☆創られた人も私も主の宝     
神は人をご自身のかたちとして創造された。

☆問題は自己中心にあるらしい   
苦い根が生え出て悩ませたり…  (へブル12:15)

☆脳トレは聖句を覚え賛美する   
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むように…詩と賛美と霊の歌により…
神に向かって歌いなさい。   (コロサイ3:16)

☆衣と食に思い煩わないように   
空の鳥、野の花を見なさい。
  
☆カフェチャペル喜び祈り感謝する  
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。

☆手帳には奉仕予定と医者予約

☆礼拝の後ろの席がすぐ埋まる
招かれたなら、末席に行って座りなさい。(ルカ14:10)
  
☆つぶやきを感謝に変えてよく眠る  
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。   (Ⅰペテロ5:7)
  
☆どこに居ても神の目の中御手の中   
詩篇139篇

 

 

 

 


2023年02月27日

のんびり、ゆったり、お花を見ながら巡るイスラエル聖地の旅   黒田 朔

今なら未だできることをしておきたいと考える年を迎えて「もう一度行ってみたいところ」はやはり聖書の舞台「イスラエル」。子供のころから知っているガイドさんの親切な励ましを頂き、シニア向きの聖地旅行を敢行。海外は初めてという人からイスラエルは5度目というシニア21名が日本各地とハワイから現地発着型でテル・アビブのホテルで初顔合わせ。到着翌日と帰国前日に体調管理のためのフリーデー、旅の中心はイエスの活躍された北部ガリラヤ湖とエルサレム。

それぞれ同じホテルに5泊するという特別仕立て。印象深く残っているのはガリラヤ湖では沖に出た船からイエスの歩かれた町々を眺め、一時船のエンジンを止めてもらって味わった静寂。僅か数分の静寂の中で船べりを叩く波音と吹き抜ける風に二千年前のイエスと弟子たちを甦らせたこと。そして、もう一つは、エルサレムの今も続く発掘作業。13年前に発見された3千年前のソロモンの王宮跡が見学できるように整備され、2千年前のイエス時代のシロアムの池の発掘が進んだこと。
高速道路をバスで走るとカリフォルアを思わせるハイウェイとアパート群などの国造りをハイピッチで進める傍ら、2千年、3千年前の祖国発掘を掘り進めるイスラエルの「民族の息吹や力」に圧倒される旅でした。















2023年02月20日

信教の自由について考える 山里将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

2月11日は、私たちの国では「建国記念の日」の休日となっていますが、キリスト教会、とりわけプロテスタント教会では、信教の自由について考える日として過ごすことが多いです。日本全国各地で、信教の自由について、様々なテーマをかかげて、学び会や祈り会が持たれます。

私たちの教会が所属している福音交友会というグループでも、例年、「信教の自由を考える集い」が持たれますが、今年、2023年は私が講師のお役に当たる事になりました。今回は、そもそも信教の自由とはどういうものなのか、歴史的背景と今日的な意味、クリスチャンとしてどう向き合っていくのか、などについて、皆さんとともに考えてみたい、そのように願い、発表させて頂きました。

私たちが、何を信じ、どう生きていくか。とても大切な問題ですね。とりわけここ最近の世相を見ていくと、「信教の自由」と関わりの深い事件や出来事がニュースなどの話題になる事が多く報じられていましたね。

自分自身の信仰が、様々な権力や圧力から強制されず、不当な介入を受けない、という事の大切さを思わされるとともに、キリスト教の歴史の中では、まさにこの強制や不当な介入にどう抵抗し、人々の理解を獲得しながら、神様の愛を伝えていったのか、その歴史でもある事に気付かされる事が多いと思います。

また、「信教の自由」がまだまだ未発達、未整備だった時代、社会の中で、クリスチャンの先人が残した足跡をたどると、この地上の国家がどれだけ不完全であったとしても、目を天に向けて、神の国とその義を第一に求めて歩んでいた事が分かります。この事は、信教の自由に限らず、いろいろな問題、課題と直面する人生の中で、私たちを励まし、力づける、大切な視点ではないかなと思います。

31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。 32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。 33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。 34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

マタイの福音書6章31-33節、有名な「山上の説教」の中のひとつです。

希望を天の国、神様の王国にしっかりと抱きながら、この地上の現実の世界、社会、また国家のために祈る。「建国記念の日」に、本当の意味で、この国を大切にし、立てあげる(建てあげる)ための営み、まさに「建国」の営みのために、私たちも祈っています。そして皆さんが、真の王であられる神様の恵みと祝福に与れるように、心から願っています。

写真:オンライン併用で行われた「信教の自由を考える集い」の様子。
会場は貝塚聖書教会でした。


















2023年02月13日

バラではなくイバラ 藤井 貴

毎日の楽しみは1時間いろいろ考えながら散歩することで、靱公園を散歩の折り返し地点としている。公園内にはバラ園があり、春と秋に2度咲いて訪問者を楽しませてくれる。秋に咲いたバラは1月まで咲いており、1月末に春咲きのために剪定されている。
 バラの栽培は手間がかかり、靱公園でもこまめに丁寧に栽培されているのが、散歩しているとよくわかる。バラの栽培が難しいのは、バラは病気にかかりやすい、害虫もバラが大好き、水やりのしすぎで根腐れに、剪定が難しい、つるバラは誘引が難しいから。

さて、聖書の66巻にはバラは出てこない。フェニキアバラという初夏に白い3cmくらいの花を咲かせる野生バラは聖書の地に自生しているようであるが、聖書に登場するのは同じバラ科のイバラ(茨)である。この茨はエルサレム周辺でも簡単に見つかるイスラエル原産のバラ科の常緑樹「トゲワレモコウ」(トゲハマナツメ)※の可能性が高く、そのとげが長く硬いので、今でも有刺鉄線のように使われ、侵入防止の柵にからめたり、羊を守る石垣の上に置いて、獣の侵入を防ぐのに使用されている。

最初の人アダムとエバが罪を犯したとき、

「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる』」(創世記3:17-18)

と茨とあざみによる土地の呪いが宣言された。
また遡ってイエス・キリストの十字架では、ローマの兵士は知らずにこの茨を取って冠に編み、イエスにかぶせている。

「それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、からかった。」マタイの福音書 27章29節

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」ガラテヤ人への手紙 3章13節

最初の人アダムはそして私たち人類は罪を犯したが、キリストは完全な贖いのためのいけにえとなって、罪の呪いから私たちを贖いだしてくださいました。イバラはこのように、聖書の中で重要な場面に登場している植物である。

※トゲワレモコウは、トゲハマナツメ(別名:キリストイバラ)とともに、イエスが処刑された時に頭にかぶせられた茨の冠の「イバラ」の可能性がある。(廣部千恵子『新聖書植物図鑑』, 31参照)

※写真 ↑ 靱公園のバラ園(2023.2.4)

 

 

 


2023年02月06日

―エマオへの途上にて―  辻  喜男

我が家の玄関に古い一枚の額絵が飾られています。この額絵は私たち夫婦の結婚祝いとして、職場の仲間から贈られたものです。結婚以来五十数年間、何回かの転居を潜り抜けて今も飾られています。
先日何気なく見ると、額縁がずれていることに気がつきました。久しぶりに壁から降ろして額縁のゆるみを直し、ほこりを取り除いて、あらためて絵を眺めました。
その絵は、聖書に記されている「エマオへの道」を題材にして描かれたものです。
大木に囲まれた森の中を歩く三人の男の後ろ姿が描かれています。その真ん中の男が右手を挙げ、遠くを指しながら何か話している様子です。そして男の指さす方向は、木々の間から青空が広がり、太陽が輝いているように見えます。
聖書はこの人物が復活後のイエス・キリストであると語っています。そして左右に立つ二人の男は、このイエス・キリストによって「人生一歩先は闇」ではなく、その人生の一歩先にある光を見つけることができたことを描いているのです。
この「エマオへの道」の話は、私たちにもイエス・キリストの十字架の死と復活によって、失望から希望へ、暗闇から光に移されることを教えています。
さて、我が家の古い額絵は、五十数年ここまで付き合ってきてくれました。私たち夫婦も絵の中で、イエス・キリストが指し示す「ひかり」に導かれて来たように思います。
これからも、もう一つの聖書の約束である <夕暮れ時に光がある> とうことばを握りしめて歩み続けたいと思っています。

 

 

 

 


2023年01月29日

こんなことって  黒田 朔

咲くはずのない水仙が今、HBCの入り口を飾っている。昨年の春、見事に咲いたチューリップの球根を来年も見たいと大切に保存、植えたものである。確かに秋に植えた時に、早々芽を出し、その芽はどう見ても水仙。その内、ますます、水仙らしく、とうとう水仙の花を咲かせてしまったという次第。最近「DNA加工はしていません」という表示を見るが、ひょっとして一度だけチューリップの花を咲かせるようにDNA加工された水仙がその規格通り、役割を果たして元の推薦へと戻ったのか・・そんなはずはない・・と思われる方は、我がHBCに来てご覧あれ。可憐な水仙があなたをお迎えします。但し、昨年のチューリップほど器量もよくなく、匂いもしません。・・・そこで、年初めに昨年球根を買った「和泉リサイクル公園」に問い合わせたが、「私どもも聞き初めでして・・」とのこと。でも、「こんなことって、ありますか?」

 

 






















2023年01月25日

hi-b.a.の新年会に行って来ました。 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。
遅ればせながら、2023年、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

hi-b.a.(ハイ・ビー・エー)という、高校生を中心に伝道をしている団体があります。若者向けの讃美で盛り上がり、ゲームなどのレクを楽しみ、聖書のメッセージを聞き、分かち合う、そんな集会をプロデュースし、とても大切な働きを担ってくださっています。最近は高校生に限定せず、中学生も集っていたりしているようです。

1月14日(土)、このhi-b.a.の関西地区主催で新年会が行われました。「新春ゲーム大会」という今回の新年会。まだまだコロナ対策の必要が続く中、飲食の代わりに、遊びを通して親睦を深めつつ、聖書のメッセージをしっかり聞く、ということに集中したかたちになりました。

ふだん、福音交友会の中高生キャンプで関わりのある子たちも集まっていて、初めて参加した割には、割と「知った感じ」で楽しんで来ました。また、いろいろなゲームのアイデアも見させて頂けるので、私自身にとっても良い「勉強」になる、とても有意義な新年会でした。

何より、メッセージに教えられました。参照されたのは、新約聖書、テモテへの手紙第2の4章1-5節という箇所。

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。 2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、 4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。 5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

私たちがイエス様を信じて、神様の教えに耳を傾けるのは、状況が良い時だから、ということではない。むしろ、状況が悪くなったとしても、いやそんな時こそ、神様の御声に聞き続ける事が大事。そして聞いたみことばをしっかり伝える事が大事。なぜなら、人々が、耳に心地よい話を聞こうとして、自分に都合の良い、耳障りの良い、しかし、真理なんてどうでも良い、そんな不健全な話を好んで、そこに偏っていく時代が来る。またそういうお話しをしてくれる「都合の良い人」を「先生」、「教師」と呼んで集めたがる時代が来る。これ、ほんとに今がそういう時代だなぁと感じませんか? だから、聖書をいつもしっかり開いて、神様の思いに触れ続け、また伝え続ける事が大事。

高校生たち(中学生も混じっています)がこのメッセージにしっかりと耳を傾けている姿に感動を覚えました。特に、今まさに、悪い時を過ごしているように実感されやすい時代を私たちも生きていますが、これからこの時代を担っていく10代の彼らが、それぞれの現実の中で今のこの時代を受け止め、前に進んで行くための勇気、また指針を、かつて10代だった者たちもともに頂いた思いがしました。

そんなわけで、今回は、貝塚聖書教会や阪南BCというより、hi-b.a.の宣伝、お知らせ的になっていますが、皆さんの周りにもし高校生(中学生もOK)がおられれば、ぜひhi-b.a.にもお送り下さい。

hi-b.a.のホームページはこちらです。 →https://www.hi-ba.com/

 

 


写真:新年会「新春ゲーム大会」の一コマ。
※人物にはモザイクをかけています。

2023年01月16日

オリーブの若木  藤井 貴

年末年始と子供達が帰阪した。ひとりは新しく迎えた嫁を伴い、もうひとりは家族全員で大阪に引越してきた。夫婦2人の日常は嬉しい非日常になり、はじめてのメンバー、日々成長している孫、そして子供達との何気のない会話のやり取り、食事を楽しみました。

幸いなことよ 主を恐れ主の道を歩むすべての人は。
あなたがその手で労した実りを食べること それはあなたの幸い あなたへの恵み。
あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。
あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき まるでオリーブの若木のようだ。
(詩篇 128篇1〜3節)

ここで、「幸いなことよ」この呼びかけは主を恐れる人に対する普遍的な言い回しとして使われています。そして、その理由が、労働する人たちに対して、そして、あなたに向けられており、「妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。(私の妻はあまり奥には居ませんが)」「あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木」と家族に与えられている祝福が語られています。「たわわに実るぶどう」は豊かさの象徴、「オリーブの若木」は幸せや平和を象徴しているのでしょうか。また、常緑のオリーブは生命力の象徴であり、将来の豊かな実りの可能性を秘めています。
さらに、これらの恵みの源泉は主を恐れることであり、人は主を恐れることによって祝福されるだと思います。

 

 


2023年01月09日

新年を新しい心で迎える      辻 喜男

クリスチャンにとって、一年の始まりは三回ほどあります。

その1、キリスト教の暦による一年の始まりです。それは、イエス・キリストの誕生を祝う時であり、まさにイエス・キリストの出現によって、キリスト教が始まったからです。実際にはキリストの誕生の一か月前から始まり、待降節、降誕節、復活節と進み、次の年の待降節までを一年とみることができます。

その2、学校や役所で使う会計年度の考え方です。通常、4月から新しい年度が始まります。学校生活の中で、入学、卒業が年度の規準に役立っています。

その3、カレンダーの1月1日(元旦)も、新しい年の始まりとして、私たちは大切にしています。12月31日の大晦日が終わり、翌日には家の内外ともに、みんなが新しくなったように思います。クリスチャンも、このカレンダーによる新しい年の始まりを大切にします。一年を終える年末に感謝の祈りをささげ、新年には新しい年への期待を祈り求めます。私たちにとって、とても大切な節目です。過ぎ去った一年にいろんなことがありましたが、それらのことを神は益としてくださり、新しい希望が与えられることを信じて祈ります。自分のため、家族のため、教会に集っている一人一人のために祈ることは、なんとも幸いな時です。

聖書の約束(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、(イエスを救い主と信じるなら)その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

2023年01月03日

ラジオ伝道にも挑戦中 山里 将之

ラジオ伝道にも挑戦中 山里 将之みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

12月25日、クリスマスを迎えました。2022年、今年はちょうど日曜日に重なり、礼拝もひときわにぎやかに。コロナが去年までにくらべると少しおさえがきいてきたことも相まって、各教会、久しぶりのクリスマスの集会に励んでいるところです。

そんな中、先日、ラジオの収録のため、久しぶりに街に出る機会がありました。大阪市内の福島にある朝日放送テレビを訪れて、2回目のラジオ収録。1回目が去年、2021年の7月のことでしたから、1年と5ヶ月ぶり。今回は寒さもあってか、1回目の時よりもたくさん取り直ししたなぁと思いました。何事も経験が大事ですね…。放送予定は来年2023年の2月25日、土曜日。朝の4:30(!)と、かなり早〜い時間帯…もし良ければ(早起きできたら)お聞き下さい…ご無理のない範囲で。

ふり返ると、2008年に神学校(牧師を養成する学校)を卒業してからもうすぐ15年にもなろうとしていますが、今なお、いろいろ「新米」として挑戦する分野がたくさんあるというのは、ある意味、嬉しい事だなと思います。もちろん、不慣れな事から来る戸惑いとかストレスとかが無いわけではないですが、挑戦してみた先に開かれる新しい「景色」がまた楽しいわけで、これからもいろいろ試してみたいと願っています。

ラジオの収録を終えて、少し都会の風を楽しみ、お隣の梅田まだ足をのばして、久しぶりにキリスト教書店を訪れました。これも、いろいろな挑戦にともなう嬉しい副産物。チャレンジの後の寄り道は、ちょっとした自分へのご褒美でした。

皆さんにも、新しいことへの取り組み、挑戦、やってみたいことへのチャレンジがあると思います。初めての事ですから、うまく行かなかったり、失敗を繰り返したりというところを何度も通ると思います。でも、その試行錯誤の先にある、素晴らしい「景色」を楽しみにしながら、青臭くても、泥臭くても、進んでいけたら嬉しいですね。挑戦し続けるからこそ、きれいな「虹」を見つける権利がある…最近よく聞いている、back numberの歌のメッセージです。映画の主題歌にもなっているので、ご存知の方もおられると思います…。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
聖書 詩篇37篇5節より。

2023年、皆さんの、そしてあなたの、新しい歩みを、神様が護り導き、支えて下さいますように…。

写真は朝日放送テレビ社屋。Wikipediaより。
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Asahi_Broadcasting_Corporation_headquarters_in_201909_001.jpg/1920px-Asahi_Broadcasting_Corporation_headquarters_in_201909_001.jpg



























2022年12月26日

「時を失うと‥」 黒田 朔

時を失うと‥」
何とかなる・・と思ってはいても、どうにもならな現実がある。先日のことだ。今まで使っていた髭剃りの切れ味が落ちてきたので、思い切って以前から使ってみたいと思っていた髭剃りを手に入れ、ご機嫌だった。ところが、充電用のコードをなくしてしまった。気にはなりながらきちんと片づけないまま放っておいたからだ。その辺にある、要る時にはすぐに見つかる・・と思っていた。3か月ほどして髭剃りに赤ランプがつき、それでも慌てず、探し始めた。ない・・、ここにも、あそこにも。いろいろな電源コードが出てきた。しかし、合わない。古い髭剃りにコードはあるのに、新しいのがない。何とかなると思っていたが、どうにもならない。遂に、電気屋に行き、コードを取り寄せてもらうことにした。「1週間から、時には2週間かかるときがあります」やむを得ない。幸い赤ランプがつきながら髭剃りは動いてくれた。しかし、5日目、ついに止まった。電気髭剃りしか使ったことがないが、「とうとうカミソリを買わなければ・・」と思っていたら、外出先に届いたとの電話があり、「助かった・・」と継ぎ足しコードを手に店を出た。¥4800也!
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」(伝道者の書 3:1、6)

 

2022年12月19日

チャペルの窓  父と母を離れてふたりは一体に


11月27日に長男の結婚式が東京の三光教会で行われた。
これでふたりの子供は完全に自立(→独立)した。親の責任を果たせたが、親としては淋しい思いもある。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。(創世記 2章24節)

この言葉は神が男と女(アダムとエバ)に人間を創造された記事の最後に出てくる結びの言葉で、キリスト教の結婚式でもよく読まれる言葉である。

 41年前に結婚したとき、子供の立場でこの言葉をかみしめ、経済的にも、精神的にも、父と母を離れ(自立し)ないと行けないという自覚をもった。そして、妻と一体で、家庭を築いていく決意をした。
今回は親の立場で、この聖書の言葉をかみしめる。子供に対して言いたいことは沢山あり、関わりたい気持ちもいっぱいある。しかし、子供夫婦はわれわれから離れないといけない、親ができることは彼らのために祈ること、そして、彼らの離れていく過程を見守ることだけなんだと意識した。勿論、子供のために祈らない日はないけれど、さらに祈りを通して彼らを支え、後は神様にお任せしよう。


2022年12月05日

聖書キャンプ報告   山里 将之


みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

もうすぐクリスマスが近づく11月の最後の週。皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。そんな時期ではありますが、引き続き、2022年の夏の思い出…今日で最終回、聖書キャンプのご報告です。

小学生キャンプ、ティーンズバイブルキャンプときて、最後になりましたこの聖書キャンプは、ひらたく言えば、ファミリーキャンプ、全世代参加のキャンプです。大人も子どももお年寄りも、みんないっしょに行います。

小学生キャンプ、ティーンズバイブルキャンプの方は、コロナがおさまった時期を見計らって、宿泊形式で行いましたが、いろいろな世代が一同に会する聖書キャンプは、大事をとって今年は宿泊はナシ。8月6日、11日、13日の3回に分けて、日帰り形式で行いました。

中でも印象深かったのは、8月13日のプログラム。京都駅からほど近い、キャンパスプラザ京都を会場に、なんと仏教の学びをいたしました。

クリスチャンが、なぜ仏教を? 素朴な、そして至極まっとうな疑問ですね。でも、もし本当にキリスト教を伝えたい、聖書をより分かりやすく説き明かしたい、そう願うなら、もともと持っている宗教観、世界観を研究することはとても大事なことですよね。私たちの国、日本では、一方で仏教、一方で神道というふたつの伝統的な宗教が歴史の中で長らく影響を及ぼして来ました。そこで培われている文化、発想、習慣、感覚を知ることが、キリスト教をよりよく伝える足がかりになります。

もともとユダヤ、イスラエルといった、中東世界で信仰されていたキリスト教を、トルコ、ギリシアを経てローマにまで伝えた使徒パウロも、同じような道筋を通りました。生粋のユダヤ人、熱心なユダヤ教徒として、エリート教育を受けたパウロでしたが、全人類を愛されるイエス・キリストと出会い、クリスチャンとなってから、彼は律法を持つ者(ユダヤ人)には律法を持つ者のように接し、律法を持たない者(ユダヤ人以外の人々)には律法を持たない者のように接しました。それだけでなく、弱い者には弱い者のように、さらにはすべての人々のためにすべての者となれるよう務めました。

そのおかげで、今では全世界に聖書の教えが届けられています。

聖書 コリント人への手紙第一9章19-23節
19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。 20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。 21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。 22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。 23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

長かった夏の思い出ご報告も、今回でようやく最終回。次回もまたお楽しみに…。

写真:聖書キャンプの一コマ。京都の西本願寺を探訪。
※あえて少し画像をぼかしています。


2022年11月28日

新年の手帳とカレンダー         辻  喜男

書店やホームセンターでは、すでに来年(2023年)のカレンダーや手帳が店頭に置かれています。それらを見ながら、かつて新しい年に期待をかける時期もあったことなどを思い出しながら、今も何となく手に取ってみたくなる気持ちにさせられます。ただ最近はもっぱら百円均一のお店で買うようにしています。というのは、手帳に書き入れるほどの予定もなく、空白の日もあることから、高価な手帳はもったいないような気になるからです。百円均一でも、何種類ものカレンダーや手帳が並べられているのに驚きながらも、どれがいいのか選ぶ楽しみも味わっています。ただ、どうも気になるのは、月曜始まりの手帳が多くなっていることです。現役世代の人々には便利かもしれませんが、私は月曜始まりでは気持ちが落ち着きません。かつて日曜始まりになじんでいただけでなく、クリスチャン生活を送るうえで、やはり、一週間は日曜日から始まらなければならないのです。日曜日は単なる休みの日ではなく、神を礼拝する日であり、一週間は礼拝から始まるのが最もふさわしいと考えるからです。日曜日の朝、礼拝に出席し、神に祈り、賛美をささげることで、明日からの活動に備えるのが、聖書が教える本来の人間の生き方です。









2022年11月21日

歳をとるのも悪くはない 黒田 朔

チャペルの窓 「歳をとるのも悪くはない」    黒田 朔


私は音楽に通じているわけではありません。でも、昨晩、TVのチャンネルを回していて行き当たったオーケストラの演奏に引き込まれ、遂に終わりまで聞くことになりました。音楽の美しさに心惹かれてチャンネルをとめ、聞いているうちに椅子に座り指揮する指揮者と演奏する団員一人一人の間に通う信頼と尊敬の絆を感じ、それが音楽の美しさの源だと思いました。演奏が終わり、新聞の番組表で確かめ、納得しました。「クラシック音楽館N響1965回定期講演会・指揮は95歳の巨匠ブロムシュテット・曲は交響曲9番~マーラー。」演奏後のブロムシュテットと団員が交わす感謝、喜び、ねぎらい、それを称える聴衆の喝采を聞きながら思いました。若さを保つことは悪くはない、しかし、95歳、歳をとって初めて生まれてくる良いものがある。どんなに頑張っても、歳とることは避けられないのであれば、歳を言い訳の材料とせず、注意深く歳を重ね、歳だからこそ自分にもできることに責任を持ちたい、歳をとることも悪くはないと励まされました。(NHK+で聴けます。)

 

 

 

2022年11月11日

音楽健康指導士  藤井由美子

耳慣れない言葉だと思いますが主に介護の現場で参加される皆さんと一緒に歌ったり、歌いながら体を動かすことで参加してくださった方の健康維持と転倒予防など筋力アップをお手伝いする指導者のことです。
二年前コロナ感染者が激増し、教会活動も私の属しているオルガン研究会、コーラス、カンツォーネのクラスも一切お休みになり自宅で過ごす毎日の中でせっかくこんなにまとまった時間があるなら「コロナ自粛だからこそできた」と言えることを何か一つは形に残したいと決心しました。それなら前から興味もあり、大好きな音楽を通してコロナ自粛が明けた後皆さんのお役に立てる「音楽健康指導士」の資格を通信教育で取ろうと、毎日1単元と決めてコツコツと学び2か月で準2級を取得しました。これではまだ補佐はできても一人でクラスを持つことはできないので実技の講習会に参加し最終日に試験を受け、無事2級の免許を取得しました。まだまだ初心者マークの取れない者ですが、皆様の健康維持、免疫力アップのためにお役に立ちたいとカフェ・チャペルで月に1度クラスを持たせていただきます。
むしろ皆さまに音楽健康指導士として一人前になれるように育てていただきたいと思っています。楽しく笑って歌っていつの間にか元気になっている。そんなクラスになればいいなあと願っています。

「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に使えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」 詩篇100篇1,2節

 

 


2022年10月31日

ティーンズバイブルキャンプ報告 山里将之

ティーンズバイブルキャンプ報告

山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

10月も最終週を迎えました。田畑の収穫もそろそろ終盤。2週間ほど前には地元の祭りが3年ぶりに開催され、その頃を境に衣替えも始まり、冬支度に取りかかっているところですが、今回も前回に引き続き、夏のキャンプのご報告です。今回はティーンズバイブルキャンプと呼んでいる、中高生キャンプの様子をお伝え致します。

8月16日(火)〜19日(金)、和歌山県立白崎青少年の家を会場に、3泊4日の期間、中高生とともに寝食をともにし、海で思いっきり楽しみ、夜には花火、また天体観測と称しての野外でのおしゃべり会…。充実した4日間を過ごしました。

もちろん、中心となるのは聖書の説き明かし。ティーンズ「バイブル」キャンプ、その名前のとおり聖書の時間を第一としています。メッセージを担当くださったY先生、ご自身の若かりし頃の状況や、信仰を持つに至った経緯をまじえながら、神様とともに歩む事の大切さをしっかりと語って頂きました。

ティーンズの年代になると誰しもが、クリスチャンであろうとなかろうと、様々な問題、課題に直面し、人間関係や学び、進路、恋愛、将来への希望と不安…こうしたものと直面します。そんなティーンズたちと向き合い、ともに考え、膝突き合わせ、肩を並べて神様に祈るうちに、私たちの方が大いに取り扱われ、成長させられる。ティーンズバイブルキャンプにはそういった、私たち大人への問い迫りといった機会にもなっています。まさに小さな牧会、いや、牧会そのものです。

はるか昔、イエス様が、どのように弟子たちを導き、訓練したのかと言えば、ともに旅をし、ともに食卓を囲み、その事を通して神様の恵みにより頼む事を体験を通して学ばせる、という方法がかなりの部分を占めていました。ティーンズバイブルキャンプは3泊4日とずいぶん期間限定ではあるのですが、それでも、イエス様が採用されていた弟子訓練の姿、方法により近いあり方でもあります。

あれから2ヶ月が経った中高生たち。今、どんな風に過ごしているでしょうか。楽しい思い出とともに、語られた聖書のメッセージがしっかりと心に残り、彼らの将来の良き道しるべとされていく事を心から願っています。

聖書 詩篇119篇9-10節
どのようにして若い人は自分の道を 清く保つことができるでしょうか。
あなたのみことばのとおりに 道を守ることです。
私は心を尽くしてあなたを求めています。
どうか あなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。

写真:白崎青少年の家での写真のほんの一部です。
※あえて少し画像をぼかしています。


2022年10月24日

主はわが飼い主   辻 善男


 先月行われたエリザベス女王の葬儀は、荘厳な雰囲気の中でフィリップ王子との結婚式の会場でもあったウエストミンスター教会で執り行われました。
テレビ中継を見ながら、自分も世界の要人たちに囲まれて参列しているような感覚になりました。それは、式がキリスト教式であっただけでなく、私たちが毎週教会で行っている礼拝のプログラムと同じ内容であったことにもよりました。棺が安置されると、全員起立して讃美歌を歌い、聖書が朗読され、説教と祈りがささげられました。参列者全員が、いのちを与え、いのちを取られる創造主なる神をほめたたえました。中でも、この葬儀を身近に覚えたのは、歌われていた讃美歌の一曲が、私たちも教会で親しんでいる曲であったことでした。テレビ中継を見ながら、参列者とともに大きな声で賛美しました。その讃美歌「The Lord’s my shepherd」は「主はわがかいぬし、われはひつじ」という歌詞で始まります。この歌詞は、旧約聖書の中でも多くの人々に愛されている、詩篇23篇に曲をつけたものです。
詩篇23篇(新改訳聖書2017年版による)
 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」

 この讃美歌は、エリザベス女王がご自分で選ばれ、結婚式でも歌われたそうです。結婚式ではこれからの女王としての歩みに、主なる神の守りと導きが与えられるように祈り、葬儀では、たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても 私は災いを恐れません。あなたがともにおられますからと神に感謝し、最後には私はいつまでも主の家に住まいます、と讃美しています。
 この讃美歌を女王の生涯にわたる信仰告白として、私たちも一緒に神を讃美することができました。

 

 

 


2022年10月17日

歓迎 黒田 朔

礼拝に来られる皆さんを歓迎するために、日曜日の朝、水撒きをする。今朝、玄関の戸を開けて「アレッ、秋だ!」と思った。金木犀の香が漂ってきた。隣の家の垣根にある金木犀が送ってくれる香りで秋を知ることができる。その花は小さくて、ときには見えない。しかし、その匂いはどこまでも届き、秋の到来を告げる。それにしても、今年の花は小さく、少ない。何時も花のお世話をしておられたお隣の奥様が2ケ月ほど前に亡くなられ、花も主を失うと力を落とすのか。私達も、キリストの愛を一杯受けて、キリストの香を周りに送り届けたい。たとい、花は小さくて、人目につかずとも、香りでキリストの素晴らしさを送り届ける・・そんなクリスチャンになりたいものです。   


私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。Ⅱコリント2:15,16

 

 

 

 

 

2022年10月04日

合同小学生キャンプ   山崎 將之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

早いもので、9月ももうすぐ終わり。田畑では豊かな収穫の喜びを目にする季節になってきました。そんな中ではわりますが、前回の記事の終わりの方で、“もうしばらく、「夏休み」のお話が続きそうです…次回もお楽しみに”と記しましたように、今回も夏休み期間中の出来事を紹介したいと思います。今回は、8/3(水)-4(木)の一泊二日で開催した合同小学生キャンプについて記してみようと思います。

私の所属している貝塚聖書教会は、岸和田聖書教会、岸和田北聖書教会、岸和田東聖書教会、そして昭和聖書教会と協力して、合同小学生キャンプを行っています。コロナのため、2020年、2021年と、2年続けて中止が続きましたが、今年になって実に3年ぶりに開催することが出来ました。コロナの前は、2泊3日で行っていたのですが、今回は1泊2日に短縮。貝塚市の山の中にある少年自然の家を会場に、小学校3年生〜6年生までのお友だちとともに、聖書のメッセージに耳を傾け、神様を讃美し、自然を満喫しました。

この記事を記している本日、9/25(日)は、ちょうどこの合同小学生キャンプ委員会があって、キャンプの振り返り、反省、次に活かすための改善点の確認などが行われました。今、まさにその委員会から帰って来たばかり。久しぶりの事で、スタッフ自身もいろいろ思い出しながらのキャンプ。いたるところで準備不足があり、反省する点も多々ありながらも、なんとか最後まで開催出来たのはすべて、神様の支えあっての事。いやはや、本当に……主の護りに感謝です。

そんなこんながありながらも、参加してくれたキャンパーたちの喜びの顔には、スタッフ一同もともに励まされ、力づけられました。教会では集まったひとりひとりを「神の家族」と呼び、男の人には「兄弟」、女の人には「姉妹」と呼ぶ習慣があるのは、皆様もご存知の通りでしょう。集ったひとりひとり、大切な神様の兄弟、姉妹、家族です。コロナに最善の注意を払いつつ、寝食をともにし、語り合い、神様の御名を讃美するこのキャンプが、夏の良い思い出になってくれればこの上ない喜びです。

以前にも紹介した事のある聖書のみことばを一箇所、ご紹介致します。

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」
詩篇 第133篇1節

もし、皆さんのご家庭に、小学校3年生〜6年生のお子さんがおられて、教会のキャンプに興味がおありでしたら、ぜひ合同小学生キャンプをおたずね頂けたらと思います。来年、2023年にはさらにコロナが落ちつている事を願い、祈りつつ、委員会では話し合いが進められています。もちろん、ノンクリスチャンの子も大歓迎!

追伸になりますが、今年はさらに、中高生のためのティーンズバイブルキャンプ、またご家族・全世代を対象とした聖書キャンプも行われました。次回はまたいずれかのご紹介を……お楽しみに!

写真:川遊びの時の一コマ。貝塚市の渓流園地にて。
※あえて少し画像をぼかしています。

2022年09月26日

秋冬野菜    藤井 貴

秋分の日を迎え、私の貸し農園でも、夏野菜を撤去し、秋冬野菜に模様替えしつつあります。ニンジン、ダイコン、カブの種を植え、次週にはキャベツ、白菜、ブロッコリー等の苗を植える予定です。
夏野菜と秋冬野菜の大きな違いは、花を咲かせ実を収穫する夏野菜(トマト、キュウリ、ナス等)に対し、秋冬野菜は花が咲く、所謂トウダチする前に、その葉や茎、根を収穫します。
一般的に、植物は発芽後、葉や茎を大きく成長させ、やがて生殖のため花になる芽を作るようになります。このことを花芽分化といいますが、花芽分化には植物自体の栄養状態と気温、日照時間などの環境が大きく関係します。自然状態での花芽分化期は植物の種類ごとに決まっており、秋冬野菜では日照時間や温度によってこの花芽分化のスイッチが入るものが多くあります。またこの花芽分化を人工的に操作して、促成・抑制栽培が行われています。種ごとにこのスイッチが違い、微妙に配慮されて設計されているように感じます。

「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」(マタイの福音書 6章28~30節)

花がどうして育つのか?まさに神様の配慮の中で設計され、自然の法則の中で神に保たれているからではないでしょうか。

2022年09月19日

人間よ昆虫から学べ  辻  喜 男

NHKテレビの「昆虫すごいぜ」という番組はすごいです。先日、ふとチャンネルを変えたところ放送されていたので、何気なく観ているとトンボのオニヤンマが取り上げられていました。オニヤンマを捕獲して、その羽の模様と胴体の配色の絶妙な美しさとともに、運動能力のすごさも紹介されていました。飛んでいる虫を時速70キロの速さで捕獲することや、勢いよく飛んでいて急旋回できる能力は、人間にはとてもできないことも実証されていました。まさに人間が昆虫から学ぶ必要を実感させられました。


 私たちは、このような小さな命にも、生きるために様々な工夫が与えられていることに驚きながらも、これらの小さな命が どのようにその美しさや運動能力を獲得したのでしょうか。また私たちは、そのような小さな命から何を学ぶことができるのでしょうか。番組では明確に語られていませんでしたが、その一つの答えは聖書にあると思います。聖書には創造主なる神がおられ、その神によって生き物が創造され、命が与えられていると記されています。そして天地万物の創造の最後、すなわち環境が整えられた後に、人間とその命が創造されたと教えています。


 人間の創造について聖書はこのように教えています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(旧約聖書「創世記」1:27)。この「ご自身のかたち」とは「神ご自身のかたち」ですが、これは外見上の形のことではありません。人に与えられた「神のかたち」とは、与えられた命によって、神を信じ受け入れ、与えられた命の意味と目的を理解できものとして創造されたということです。その意味と目的を正しく理解できるならば、それぞれの人生によって、神の創造に対する責任を果たしたことになります。また一つ一つの部分が絶妙に組み合わされ、長時間精巧に動き、必要なものは新しく創造される肉体を維持する力も与えられているのです。
 昆虫だけでなく、神に創造されたすべてのものの意味と目的を知ることができれば、私たちの新しい生き方をも発見することができるように思います。

2022年09月12日

時が流れる   黒田 朔

今日も母校「鳥中」の前を走る。15歳で卒業以来、訪問した記憶がない。いや、鳥中だけではない、高校も、大学も・・。今まではその時々にすることに忙しく、訪問の機会よりもその余裕がなかったのだろう。思い出してみると卒業後訪問したのは神学校だけ、その時々の仕事の必要があってのことと思う。先週、その神学校の同窓会からY先生の訃報が届く。

卒業後、その年に開いた初めての特別伝道集会に講師としてお招きするなど、お世話になった先生である。Y先生が逝かれて神学校でお世話になった先生方は全員、亡くなったことになる。時の流れを感じつつ、今日、神学校同窓会関西支部主催の研修会が開かれる。コロナ感染状況下、オンライン開催となった。テーマは「セックス、ジェンダー、セクシュアリティ―~伝道牧会の課題として」。すべてが時の流れの中にある。しかし、その時の流れに流されず、時の流れを読み、時の流れに沿って、残されている限られた時を賢く楽しみ、喜びの日々を作りたい。


私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。だれが御怒りの力をあなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。ふさわしい恐れを持つほどに。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩90:10-12)
黒田 朔

 

 

 

 

 


2022年09月06日

北九州・小倉聖書教会訪問記 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

この夏、私はあちこちに出かけました。前回は、奥多摩福音の家で開かれた、神学校の夏期研修講座に参加したお話を致しましたが、今回は北九州・小倉聖書教会を訪問した時のお話です。

7月17日(日)は、小倉聖書教会で宣教のご奉仕に与りました。この小倉聖書教会は、貝塚聖書教会の前任者、池尻良一牧師が深く関わった教会で、およそ20年の歴史があります。お医者さんでもある小山先生がご自宅を開放して教会として用い、奥様とお二人で礼拝、祈祷会を守って来られました。文字通りの「小さな群れ」ではありますが、これまた文字通りの「家族的な教会」。大阪からはだいぶ距離がありますが、ここにも、つながりのある教会がある事に神様のみわざの広がりを感じさせられました。

礼拝をお献げした後は、ちょっと寄り道しまして、福岡空港のある博多とは逆方向にドライブ。門司から関門橋をわたり、本州最西端の下関へ。地上では初めて関門海峡を通りました…実は、新幹線では一度、通った事があるのですが、あれは海底トンネル…。山口県側からつい先ほどまでいた九州を望むと、こんなに近いのか、とあらためて驚きました。よっぽど明石海峡大橋の方が長いんですね。次に訪ねる機会があるとしたら、もう少し「身近」に感じるな、と思いました。遠くには宮本武蔵と佐々木小次郎が闘った巌流島(正式名称「船島」)をはじめ、たくさんの島々を見ることができました。その一つ一つに名前があり、小さくはあってもその島の個性があり、歴史がある事を思わされました。

聖書 詩篇97篇1節
「主は王である。地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ。」

それにしても、教会は、本当に不思議なもので、場所も違えば大きさも違いますし、当然、それぞれの歴史も違います。何しろ集っている人が違いますから、十人十色、ならぬ、「百教会百色」、そうであるにも関わらず、訪れるとやっぱり「教会だなぁ」と感じます。歴史ある大きな会堂をもった教会も、自宅を開放してささやかな営みを続ける教会も、イエス様の家族であり、イエス様の弟子であり、イエス様の友であるという恵み、喜びを共有しています。あなたも、この恵み、喜びを、ともにいたしませんか…。

追記:8月も半ばを過ぎましたが、もうしばらく、「夏休み」のお話が続きそ うです…次回もお楽しみに。

写真:山口県は下関の丘の上、火の山公園から九州を望む。

2022年08月22日

夏休み   藤井 貴

夏休みです。私が関わっている大阪府高齢者大学校も2ヶ月の夏休み、またコロナの感染拡大による医療非常事態宣言でチャペルも日曜日以外の集会は休会またはオンライン開催です。一方、貸し農園で行っている野菜栽培だけは、水やり、収穫、剪定に加え、秋冬野菜の植え付け準備等、休みなしです。
さて、私は夏休みになると、井上陽水の「少年時代」を自然と口ずさんでしまいます。

夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれにさまよう
青空に残された
私の心は夏模様

この歌詞に以下のような解説がありました。 ---「風あざみ」と聞く大半の人が植物のアザミをイメージするだろう。実際にアザミの開花期は4月~7月であり、この曲の背景と一致している。しかし、この曲では具体的な植物としてのアザミを示しているのではない。アザミの花言葉は、「独立」「報復」「厳格」「触れないで」とネガティブなイメージで、孤独を感じさせる。夏が過ぎさった少年時代の虚無感というものを「風あざみ」という言葉で井上陽水は表現している。「青空に残された私の心は夏模様」も夏休みが終わったあとのあの虚しい感情を表している。子供のころの夏の思い出は大人になっても楽しい思い出として記憶され、青空という記憶装置に子供のころの楽しい夏の思い出(=夏模様)を残している。---

確かに、夏の青空は子供のころの思い出に導いてくれます。高齢者になった今は、夏休みは暑さの最盛期で熱中症との戦いです。しかし、やがて夏が終わり秋になります。日本には春夏秋冬、それぞれの季節があるので、安心して生活できます。神がこの世界を作られたとき、私たち人間に安心と恵みを与えるため、季節を設定し、今なお支えてくださっているからです。

「あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」使徒の働き 14章17節

最後に、本ホームページの新着情報にご案内しましたように、8月21日に安井先生をお迎えして「神の創造」について、チャペルでお話していただきます。ユーチューブでも同時配信しますので、ご視聴ください。

 

 

 


2022年08月15日

安心して眠るために 辻 喜男

「安心して眠るために」  2022/7/31
 
 夕方に放送されている民放のニュース番組で、きょう誕生したばかりの赤ちゃんが紹介されます。目はまだ開いていませんが、お母さんの胸に抱かれて安心して眠っているかわいらしい様子に、思わず見入ってしまいます。また赤ちゃんの周りにいる大人たちも、みんな笑顔に満たされています。事件、事故、災害などの二ユースが多いなか、毎日どこかで小さな家族が、喜びの笑顔に満たされていることに心がなごみます。
 何もできない赤ちゃんが、母親に抱かれ、安心して眠っている姿を見ながら、私たちもこのように日々安心して過ごし、眠ることができれば、どれほど幸せなことでしょう。私たちは朝から夜まで、パンを得るために額に汗して働いています。しかしそんな生活で、ときに疲れを覚え、ときに焦りやむなしさに襲われることがあります。そんなとき何かで誤魔化しながら、生きている以上仕方がない、とあきらめていることはないでしょうか。ドラッグストアーでは栄養ドリンクやサプリメント、また睡眠導入剤が数多く販売されていますが、それらは一時的に効果はあっても、本当の意味で安心、安全を与えることはできません。
 私たちが本当に安心、安全な生活と眠りを得るためには、生まれたばかりの赤ちゃんが安心しきって、お母さんの胸に抱かれている姿を思い起こす必要があります。そのような様子を聖書も次のように語っています。「実に、主(神)は愛する者に眠りを与えてくださいます。」(旧約聖書・詩篇より)。たとえ日々の生活に疲れを覚えることがあっても、心から信頼することのできる方(神)を持つことができれば、からだは疲れてもたましいの平安、安心を得ることができます。神を愛するとは、神に信頼してゆだねることでもあります。そうすれば母親に抱かれた赤ちゃんのように安心のうちに眠り、日々を送ることができます。人生で信頼できる方(神)をもつこと、それがその人の眠りと生活をを決定することになります。「私」を愛し、守ってくださるお方がおられることを知り、認めるなら、日々の生活も安心して過ごすことができます、と古代の詩人が現代の私たちに語りかけています。

2022年08月08日

イスラエルツアーに参加して  黒田 朔

イスラエルツアーに参加して・・
「イスラエルに行ってきました・・」と言ってもバーチャルツアーで行ってきました。今、イスラエルに行っている親しいK先生からの「ガリラヤ湖のツアーに行きませんか」とのうれしいお誘いメール。日頃「もう一度行ってみたいところと言えばイスラエル・・」と言っている私たち夫婦は大喜び。色々苦労はあったけれど、懐かしいガリラヤ湖、キリストの弟子ペテロがイエスに「あなたはわたしを愛するか」と3度聞かれた再召命の像があるカペナウムの案内を受け、続いて、イエス様が実際に何度も訪ねられた会堂やほんの100mほど離れたところの漁師の屋敷、その屋敷を出たところのガリラヤ湖岸に下り、岸に打ち寄せる波の音などなど・・現地では厳しい日差しの中をスマホを構えて歩き回ってくださったK先生のお蔭でガリラヤ湖ツアーをクーラーの利いた部屋で楽しめ、感謝したことでした。それにしても、ズーム、フェイスブックなどがどうして地球の裏側のイスラエルを映し出せるのかは分からなくても、言われた通りにしさえすれば、ガリラヤ湖だって、イスラエルだって行くことができる、便利な時代になったものである。聖書の約束も言われた通りにしさえすれば天国に行ける・・信じて見る価値ある言葉だと思う。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ 3:16)

 



2022年07月30日

盛夏、牧師たちは奥多摩の山へ登る    山里 将之

みなさん、こんにちは!

貝塚聖書教会の山里将之です。
「キリスト教会の牧師って、どうやってなるんですか?」と尋ねられる事があります。一般的には、神学校(しんがっこう)と呼ばれる牧師養成のための教育機関に入学し、3〜4年ほど、学びと訓練を受けて、各地の教会に遣わされる事になります。私は2004年4月〜2008年3月の4年間、東京都羽村市にある聖書宣教会(せいしょせんきょうかい)という神学校で学び、訓練を受けました。
その聖書宣教会は、毎年、夏に、卒業生向けの継続教育として、夏期研修講座を開催しています。コロナの影響で長らく中止が続きましたが、2022年の今年、3年ぶりに再開される事になりました。7月4日(月)〜6日(水)の2泊3日間、同窓会的な意味合いもあるこの研修会に、本当に久しぶりに参加する事が出来ました。
会場は「奥多摩福音の家」というキリスト教会設立の宿泊研修施設。名前のとおり、奥多摩の山々に囲まれ、近くには川が流れていて、「ここも東京?」と思うど自然に恵まれた、本当に素晴らしい場所にあります。大阪でも東京でも猛暑が続いていますが、奥多摩福音の家の周辺はわりあい過ごしやすく、静かな環境の中で、じっくり聖書の学びに取り組む事が出来ました。
中日、2日目の自由時間には、奥多摩の鍾乳洞を散策。研修の学びはなかなかハードですが、こうしたお楽しみ、気分転換が出来るのも、魅力のひとつ。
今では全国各地に遣わされている級友(旧友)、先輩、後輩と親睦をもち、それぞれの教会の状況や、取り組んでいる働き、直面している問題、課題などを分かち合い、ともに祈りあい、そんな中から思いがけない助けが与えられる、という事もあります。あらためて、久しぶりに参加出来て良かったな、と思いました。以前にも紹介したかも知れません。詩篇121篇の歌を改めて思い起こします。
都上りの歌。
私は山に向かって目を上げる。 私の助けは どこから来るのか。
私の助けは主から来る。 天地を造られたお方から。
主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。
見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。
主はあなたを守る方。 主はあなたの右手をおおう陰。
昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない。
主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。
主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。
聖書宣教会の卒業生たちは、夏、奥多摩の山に登ります。学びはそこそこハードですが、懐かしい面々との再会と、ちょっとしたお楽しみ、気分転換の中、励ましと力づけを頂きます。「私の助けは主から来る」、そんな思いにも触れながら。
キリスト教や聖書に少しでも興味のおありの方、ぜひお近くの教会をお訪ね下さい。もしかすると、私のクラスメートが牧師をしているかも知れません。

そしてもしあなたが、神様の不思議な導きを頂いて、「私も牧師になってみたい」と思われる事があったら、神様に祈り、牧師と相談してみてください。もしかすると将来、ともに奥多摩の山に登るようになるかも知れませんね。きっと楽しいですよ!

写真:奥多摩福音の家(略称「OFI」)外観と、自由時間に訪れた鍾乳洞。

2022年07月18日

Old Friend 藤井 貴

今月末に高校生時代の友人O君と会うことになっている。2年生のクラスメートだったO君が私が乗っていたバイクを借りにきた時、あえて教会に来てもらった。その後、バイクではなく教会に来てくれるようになり、信仰を持った後は、いっしょに教会の高校生クラスを運営するようになった。卒業後親の転勤で関東に、そして、大学、小学校の教員、結婚、さらに、小学校の校長となり、退職。現在は、学童保育のお世話を行なっている。お互い家族を持ってからは年賀状のお付き合いになっていたが、退職後はまた会えるようになった。
"鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。" 聖書・箴言 27章17節
本音で語り、祈りあえる友は何歳になってもありがたい。

彼と出会った頃、好きだったアーティストがサイモンとガーファンクル、彼らの歌に「Old Friends」がある。その後半の歌詞は、

Can you imagine us
Years from today,
Sharing a park bench quietly?
How terribly strange
To be seventy.
Old friends,
Memory brushes the same years
Silently sharing the same fears
きみは想像できるかい
長い歳月が経ったあとのぼくらが公園で
ひとつのベンチをそっと分けあっているのを
おそろしく奇妙な感じだ
七十歳になるなんて
年老いた旧友たちよ
変わらない歳月を記憶がかすめていく
変わらない恐怖を無言で共有しながら

であり、若い友人が70歳になったときのことを想像して歌っている。
私たちが高校生の時そんな想像はしなかったが、70歳を少し前にして、変わらない主イエスの恵みを共有している。

 

 

 

 


2022年07月11日

「やめること」「捨てること」について 辻 喜男

人生の最終章を迎えた今、改めて気になっていることは、いわゆる人生の「断・捨・離」と言われていることです。書店の棚を見ても、そういうことを勧めている書物や雑誌を多く見かけます。関心があってそういう書物に目がいっているだけかもしれません。しかしそんな中で目に留まった本を購入してしまいました。皮肉にも捨てることを勧めている本が、また一冊増えてしまいました。なんとその本によれば、百種類の例が挙げられており、それらをやめるか捨てるかすれば、肩の荷が降りて、幸せな老後を迎えることができるとされていました。
 「幸せ」の受けとめは人それぞれに違います。しかし今までの生き方を見直して、多くのことをやめて捨てれば、今までと違った新しい自分に出会うことができるかも知れないと思いました。そのためにも捨てることは、今までの歩みを否定するだけではなく、新しい何かを発見することにつながらなければ意味がないように思います。
 私自身、今まで捨ててきたものの一つに多くの書物がありました。ある宗教家、思想家が書いた一冊の書物に出会ったことで、彼の個人全集を始め評伝、研究書、エッセイなども集められる限り集めました。彼が書いた文章に感動を覚え、生き方にも影響されました。また集めた本が、書棚に並べられていることに喜びと誇りさえ感じた時期もありました。
 しかしその人物の生き方を支えていたのが、キリスト信徒であったことから当然「聖書」でした。彼の著作は聖書を通して教えられた自らの信仰の表明であり、時代と社会に対する発言も聖書を基準にした内容でした。そうだとすれば、その人物の書物や研究書よりも、決定的に影響を与えた「聖書」そのものを読まなければならないことを教えられました。「一書の人を畏(おそ)れよ」と言う言葉があるように、人の書いた万巻の書物よりも一つの書物に行き着くことが、本来の読書であると教えられました。そこで集めに集めたその人の書物を一部を残してほとんど処分してしまいました。今や残された時間の許される限り「聖書」にのみ集中して読み続けたいと思います。

 

 


2022年07月04日

映画「東京2020オリンピック」(サイドA)を観て   黒田 朔  

2020オリンピックが終わって既に1年が過ぎた。最近、その大会経費の最終報告が出されたり、映画が完成、上映されたりで再び話題を呼んでいる。前の東京オリンピックは1970年、結婚の翌年で、オリンピックに合わせてテレビを買ったことなどを思い出す程度で特別な記憶も影響を受けたわけでもない。この度の東京2020オリンピックでも、思いがけない会長辞任を始め、コロナのために1年間延期と無観客開催という忘れられない記録を残してはいるが、あれ程熱中したメダル獲得競走も今では日本の獲得メダル数さえ思い出さない。映画が河瀨直美監督によって創られると聞き、夫婦で観に行く。東京2020オリンピックという記録映画ではあるが、スポーツ記録ではなく、オリンピックという舞台だから演じられた国家事情、育児をしながらオリンピック参加を夫婦で果たした選手、赤ちゃんをあやしながら観戦する日本選手、作戦にあらわされる文化、国家、人、文化、生き方などを鋭く、深く、静かに見せてくれる映画でした。オリンピックではなくても、私たちの人生の生き方にもいろいろな違いがあり、良く考え、今の自分にできる最高の生き方を自分のものとしたいものだと思いました。ただ、オリンピックそのものも無観客でしたが、土曜日の最終回に入ったのは私たち夫婦だけという無観客で、惜しいと思いました。

 

 

 

 

2022年06月28日

平和への願い  山里將之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

私の故郷、沖縄では、全国に先駆けて6月23日に終戦の日を迎えます。全国的にはポツダム宣言受諾の8月14日の翌日、玉音放送が行われた8月15日をもって終戦の日としているわけですが、沖縄では組織的地上戦が終結した6月23日の方に重きを置く傾向があります。混同を避けるために「慰霊の日」とも呼ばれています。

そんなわけで、沖縄では6月を迎えると平和について考える機会が増えます。さらに、全国と同じく8月にも平和学習を持つ機会が多いので、年に2回、平和への願いを新たにする月が訪れる事になります。

そんな沖縄出身の私ですから、ウクライナとロシアのニュースには本当に心痛むものがあります。77年前の沖縄戦とは当然、時代も地形も戦況も兵器も異なりますが、非戦闘員、一般市民が巻き込まれ、弱き者、小さき者が蹂躙される姿にはあまりにも似通ったものがある事を感じます。本当にいち早く、この戦争が終わることを願いつつ。

戦争について、平和について、考える時、いつも参照される聖書のことばがあります。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(マタイ5:9)

平和とは、待っていれば自然に向こうから訪れるというようなものではない。ひとりひとりのたゆまざる努力でつくり出すものだ。そのようにする者たちは幸いだ。神の子どもとはこういう人々の事だ。こう、イエス様はおっしゃいます。

あわせて覚えたいのは、

「…最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです…」
(マタイ25:40)
「…最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ…」
(マタイ25:45)

戦場では特にそうですが、戦場ではなくても、身近なところで、たとえば、家庭や学校で、「最も小さな者たちの一人」といった人々は、何かとつらい思いをしやすいと思います。気をつけないと私たちも、「最も小さな者たちの一人」に、どんな態度を取り、どんなことばや思い、視線を向けているか、問い迫られる事でもあります。イエス様はおっしゃいます。小さき者、取るに足りない者、つまらない者とされているような人々に、あなたが取った言動は、わたしに対して取った言動だ、と。

どんな人に向き合うときにも、どんな事に取り組むときにも、神様に向き合っている事を心に留め、自分の言動は神様に対してなされているのだという自覚を失わない事。平和をつくる者としての大切なヒントだなと思います。

ウクライナ、ロシアの平和のため、ともにお祈り頂けると幸いです。そして、もっと身近なところでも、私たちひとりひとりが、平和をつくる者として、成長して行きたいと願わされます。

写真:NPO法人メタノイアより。出典URL https://metanoia.or.jp/2297/

2022年06月20日

紫陽花 藤井貴

紫陽花(アジサイ)は日本原産で、わたしたちにはとても馴染みのある花です。「ガクアジサイ」と「ハイドランジア」の2種類に大きく分類されますが、一般的に見られるアジサイは西洋種である「ハイドランジア」で、日本固有種であった「ガクアジサイ」を西洋で品種改良し、大正時代に日本に逆輸入されました。最近では、母の日にアジサイも送られています。
私がお世話になっている「大阪府高齢者大学家庭園芸を楽しむ科」で教わった話ですが、皆さんもご存知のドイツ人医師のEEシーボルト(1796-1866)もアジサイを愛したひとりでした。シーボルトは文政6年(1823)わが国へ来朝し、長崎の出島に住み、医業のかたわら植物学を講義、高野長英、青木昆陽、伊藤玄朴ら当時の俊秀を門下生に持ち、研究に従事していました。異国における独身生活の中、いつしかお滝さんとねんごろになり、一女をもうけましたが、文政12年(1829)ゆえあって退去を命ぜられ単身帰国のやむなきに至りました。帰国後、研究の成果をまとめてJ.ツッカリーニとの共著『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を発表したとき、東方の島国に美しく咲いた「あじさい」に思いを寄せ、日本に残 した愛妻を慕ってやまなかったといわれています。学名の「ヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサ」(Otaksa)は、もちろん、お滝さんからきています。(現在この学名は使われていないそうです)
長崎では、紫陽花を「おたくさ」または「お滝さん花」とも呼び、市民に親しまれている花で、「ながさき おたくさ まつり」のイベントも行われ、市の花にもなっています。

さて、上記の写真は阪南バイブルチャペルが作成し、チャペル周辺に配布させていただいているチラシの表紙です。チラシの中には、「新しい日常回復にチャレンジしませんか?」という書き出しでショートメッセージが書かれ、次のイエスキリストのことばで締めくくっています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネの福音書 15章12節)
ポストで見つけれた時は是非ご覧ください。

2022年06月06日

運転免許証  辻 喜男

運転免許証の継続か返納か
 先日、ある有名人が運転免許証を返納した、ということがテレビのニュースで取り上げられていました。私と同年輩のその人が、「自分で判断できる間に決めたいと思いました。」と語っていたことに心が留まりました。肉体的な衰えと共に判断力の衰えにも気をつけなければならないことを考えさせられました。ただ我が身を振り返って、肉体的な衰えはそれなりに分かりますが、判断力の衰えについてはなかなか分かりづらい点もあるのではないかと思います。「自分は大丈夫だ」というわがままな思いが、年齢を重ねるとともに強くなるように思えるからです。家族からのチェックは素直に受け止めなければ・・・
 来年、免許証と車がともに更新の年を迎えます。その時が来れば、改めて免許証も車も更新するかどうかの決断が問われる良い機会になるかと思います。これから約一年かけて、あらゆる可能性を想定しながらじっくり検討したいと思います。
 しかしその前に、このような人生の転機を迎えた時、私たちクリスチャンはまず神に祈ります。ふさわしい判断が与えられるように、また決められたことには感謝して従うことができるようにと祈ります。というのは聖書の教える祈りは、自らの願いを訴えて実現させるための手段ではないからです。願いごとを訴える前に、ここまで何十年も運転が守られたことを感謝し、その感謝と祝福が続くように祈ります。
 そのようにクリスチャンの祈りは、毎日の歩みが神の守りと祝福のうちにあることを感謝することから始まります。そしてそのように祈ることで、車の運転についても安全であるように気をつけます。それとともに、祈りのうちに日々の生活と運転が守られることによって、免許証と車の更新についてもふさわしい判断に導かれることを期待しています。

2022年05月30日

時を選ぶ大切さ  黒田 朔

GWあけに淡路島、美術館と鳴門観潮の一泊の旅に出かけました。ハワイから定年退職後日本で「自分たちの人生を変えたキリストとの出会い」を伝えたいと夫婦で来て下さったJさんとMさん夫妻との2年越しの約束の旅でした。ネギが苦手のご夫妻にとって玉ねぎ収穫の真っただ中の淡路島ではどこに行ってもねぎの匂いに追っかけられ、人形浄瑠璃の人形館に入りやっと楽しむことが出来ました。鳴門大橋のたもとで一泊、大潮の時間に合わせて観潮船に乗り、1メートルくらいの落差を落ちる潮がやがて渦となり舟の方に迫ってくると思わず「わ~ッ」「すご~い!」の連発。小1時間の観潮でお二人は大満足。今回が3回目の私たちも初めて見る潮の高さの違いや渦のすさまじさに、「これやで‥鳴門観潮は!今までのは何やったんやろか」と私たちも感動しきり。そこで、思い出したことは「何でもすれば良いというのではない。良い結果を得ようと願うなら、良い結果が期待できるようにするべきこと」でした。つまり、鳴門観潮はついでではなく、大潮の季節に、その日の干満の時を選ぶことだと気づかされました。「時を選ぶ」大切さは聖書・伝道者の書3章にあるとおりです。
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。・・・ 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。・・・ 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

 

 

 

 

 

2022年05月23日

テスト対策も、ぜひ、教会で! 山里将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

このところ、阪南バイブルチャペルの話題から離れて、貝塚聖書教会にまつわる記事投稿が多くなり恐縮なんですが、今回も、貝塚聖書教会からのお話しです。

この記事を記している5/15の前日、5/14の土曜日、午後3:00-5:00までの2時間、中学生たちに声掛けをして、教会で勉強会を開きました。勉強会とはいっても、誰かが講師になって何かを教えるというわけではなく、テーブルをならべて自習形式で行うスタイル。ちょうど私の長女が今年、中学に上がり、彼女のクラスメートが集ったという感じです。彼女をあわせて9名の中学生が、中学生活最初のテストに向けて、頑張っていました。

「自習形式?」「だったら教会じゃなくても、図書館とかカフェとかフードコートでもええんちゃう?」

まあまあ、確かにその通りなんですが、でも気心知れた教会の遊び仲間たちだけで専有出来る2時間と、不特定多数の人混みの中に紛れての2時間とでは、同じ自習形式でも集中度がだいぶ違うと言われると、「そういうもんかもな」と思われるのではないでしょうか。図書館では、ちょっとでも物音を立てると、割と厳しい視線があるかも知れませんが、その点、教会は、好き好きに勉強を教えあって、それがかえって楽しいという事も。

また、コロナがまだまだ油断できない昨今、図書館は良いとしても、中学生だけでカフェやフードコートと言うと、「まだちょっと・・・」と気が引けるというご家庭もおありだと思います。キリスト教会が、こんなカタチで、地域貢献、学習支援、あなたのお子様の成長のお手伝いが出来れば、とても嬉しい事です。

貝塚聖書教会に限らず、時間を決めて、学習スペースを提供している教会もあります。教会によっては実際に塾や英会話教室を運営していたり、スポーツクラブや趣味の集いなどを開いているところもあります。もちろん、願いとしては、キリスト教の布教・・・私たちクリスチャンは「伝道」と呼ぶのですが、世間一般的な表現としては「布教」ですね・・・の一環ではありますが、「今のところ、キリスト教には興味はないんだけど・・・」という方も、ぜひ一度、お近くの教会を訪ねてみて下さい。学びや趣味やお稽古、トレーニングを通して、仲間作り、健康づくり、自分磨きで喜んで頂ければ、それもまた、神様の恵みをお届けする教会としての喜びです。そうしていく中で、いずれ、イエス様に出会って頂けたらと願いつつ。

そうそう、ひとつ、最初に申し上げておきたいのは、教会のこうした営みは、けっして営利目的のプロがやっているわけではなく、クリスチャンの奉仕活動で行っています。そういう意味では、素人感、手作り感、満載です。「行き届かないのが当たり前」なんて、おこがましくも開き直ってのご案内なんで恐縮ですが、営利目的ではないからこそ、素人どうしならではの、フレンドリーな温かさもあったりします。

貝塚聖書教会では、中高生の集まりを土曜日に、阪南バイブルチャペルでは聖句書道やかご編みの集い、日曜日にはゴスペルフラの練習なども、楽しく行っています。

テスト対策も、ぜひ、教会で!

聖書 詩篇133篇1節
「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」

写真:5月14日(土)の自主学習の様子。あえて若干ぼかしています。

2022年05月16日

聖書を土台に据えて 藤井 貴


なたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。(聖書・詩篇119:105)

阪南バイブルチャペルは名前のとおり、聖書を土台にして歩み教会です。「礼拝説教」が毎週語られ、このチャペルの窓でも以前紹介しましたように、4年間かけて聖書全体を学ぶ「聖書入門クラス」を行っています。
また、火曜日には「聖書研究・祈祷会」を行い、聖書を通読するテキスト「みことばの光」を使って、その日に聖書から教えられたことを互いに分かち合い、さらにそこから祈りに導かれていきます。

 先週、私たちは旧約聖書の「哀歌」を学びました。「哀歌」は紀元前7-6世紀に起こった南王国ユダの滅亡とその惨劇を悲しんだ歌です。単に国家滅亡の悲劇を嘆くだけでなく、主に選ばれ、愛され、多くの恵みを受けていた民の、神への背信、裏切りを嘆く歌でもあります。
この「哀歌」を読み終わった後、私たちのうちに「なぜ」という思いが残るかもしれません。しかし、「哀歌」が「なぜ」という問いかけで終わっているように、私たちの人生も思い悩むことの連続です。思いもよらない病、耐え難い苦難、突然の困窮、人の手ではどうすることもできない災害。それらを前にして苦悩しない人はいないでしょう。無理して聞き分けの良い信仰者になろうとするのではなく、悩み、叫び、問題を受容できずに苦しむ自分を主の前に認めることも大切です。(「みことばの光」より引用)

主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
主の救いを静まって待ち望むのは良い。
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌 3章25~33節)

「聖書研究・祈祷会」は、答えを見いだせず苦悩し祈り叫ぶ私たちを、神がそのことも含め含めて受け止めてくださることを信じ、互いに励ましあえることを実感できる集会です。クリスチャンでない方も大歓迎です。

 

 

 

 

 

 


2022年05月15日

若き日の出会い 辻喜男

先日、高校の同窓会総会の案内が届きました。残念ながら、今年も日曜日の午前中に開催されるということで、礼拝のため出席がかないません。しかし同窓会の案内が届くたびに、改めて高校時代を振り返るきっかけにもなっています。良かったことも悪かったことも、今となっては懐かしい思い出です。そしてあの時代からすでに六十年が経過しました。しかしこの半世紀以上、あの高校時代に受けた授業がきっかけとなり、現在に至るまで人生を導くテーマを発見することができたように思います。
 「国語・現代文」の授業の初日に担当の先生が、分厚い本を教室に持ってこられ、「これからの勉強には、これくらいの辞書を持っておくように」と言う勧めがありました。それは岩波書店の『広辞苑』でした。『広辞苑』の存在も知らなかった者にとって、衝撃的な出会いでした。今までと勉強の質が違うように思いました。またこんな辞書が手元にあれば勉強も進むのではないかと、先生の言葉に大いに影響され、早速購入しました。あれ以来、何回が新版が発売され、その都度、採用される言葉と採用されない言葉についても話題になりましたが、今もこの辞書にはお世話になっています。ただ最近は重い本ではなく、もっぱら電子辞書++版『広辞苑』を重宝しています。
 しかそれ以上に、この時の「国語・現代文」の教科書に掲載されていた文章で、私自身の人生が決定的な影響を受けたことを忘れることができません。キリスト教思想家、伝道者である「内村鑑三」についての文章でした。教科書に掲載されていたのは、文芸評論家亀井勝一郎が書いた『非寛容の美徳』という文章の一部でした。そこで内村鑑三と初めて出会い、その生涯と活動に興味を持ちました。その文章は、内村鑑三が明治から昭和初期の時代に、キリスト者として生きることで、社会の不正を鋭く批判した姿勢を取り上げ、社会に対する寛容さよりも非寛容であったことを高く評価していました。私も教会に通いだした頃でもあり、日本人クリスチャンで、明治から昭和初期の時代に、社会に対してこれほどの発言力のある人物がいたことに驚きました。その後、ネット販売がまだない時代、内村鑑三関連の書籍を求めて、各地の書店、古書店、また図書館に通いました。そして特に、彼の代表的著作『余はいかにしてキリスト信者となりしか』からは大きな刺激を受けました。
 その後、何十年もかけて内村鑑三関連の書物を懸命に集めましたが、余りに多くて読み切れずに生涯を終えそうです。しかし内村と出会い、彼と同じ聖書の神を信じ、さらに聖書そのものを読み続けることは今も続いています。六十年以上も前に、高校の授業がきっかけで、聖書にも内村鑑三にも出会うことができたことは、私にとって幸いでした。

 

 

 


2022年05月02日

死の床で思うことは?       黒田 朔

86歳の義兄が亡くなった。その生き方を振り返ると、科学者として、ビジネスマンとしても、社会的にも成功した人生を生きた人であった。しかし、人は死の床では何を考えるのだろう。生きることに成功した人が死に臨んでも成功するとは限らない。初めて天下統一を成し遂げて秀吉は「露と落ち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」と詠んだ。在宅ホスピスケアに入ってからの義兄とは多くを話す機会はなかったが、科学者と
信仰をテーマにした本を送り、手紙を書き、終わりが近くなったころには星野富弘さんの詩集を送った。いよいよ厳しくなった頃、顔を合わせて「お祈りしましょうか」と了解を得て祈る。「人の限界を超えた世界を支配される神よ・・86年の良き人生を感謝します。
良き家族を感謝します。後に残すすべてを委ねます。お守りください。生前、あなたを悲しませたことを許し、永遠のいのちの祝福にお迎えください。アーメン」義兄も「アーメン」と和して「ありがとう」と自分の方から手を差し出し、私たち夫婦に握手を求めてくれた。死を前にした義兄とは具体的なことは話せずではあったが、共にした祈りが義兄の思いの沿っていたのだと分かった。死の床では成し遂げてきた過去の実績などが力を失い、頼れなくなる厳しさと同時に、死の向こうで頼れるもの、望みを与えるものを求めるのだと気づかされ、義兄と共に祈ることができたことを感謝し、キリストの約束を味わいなおした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

2022年04月26日

悲しみが喜びに変わる日、イースター。 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

4月に入り、新しい年度の歩みが始まっています。世の中を見渡すと、暗く、悲しく、不安や恐れにかられるようなニュースばかりですが、そのような中でキリスト教会は、希望を見失わず、しっかりと光を心に抱いて、神様の恵みと祝福を皆さんとともに出来るように励んでいます。

とりわけ、今、この記事を書いている今日、4月17日は、今年2022年の復活祭、イースターでした。イエス・キリストのよみがえりを記念するイースター。最近では、私たちの国、日本でもだいぶなじんできたようで、教会よりもむしろ町中のあちこちで、たまごを飾ったり、うさぎのマスコットがあしらわれたりしているのを目にします。クリスマスと同じく、キリスト教に由来するお祝いが受け入れられているのは、「本家」クリスチャンたちにとっても、とても嬉しい事です。

ここ最近の、私の歩み、教会の歩み、私たちの教会が所属しているグループの歩みをふりかえってみますと、

・3月31日〜4月2日 中高生向けのキャンプ(少年自然の家)。
・4月3日〜8日 およそ3年ぶりに実家の母と再会、久々の親孝行。
・4月7日 長女が中学校に入学。
・4月12日 敬愛する、前任の牧師が神様のもとへ。15日に告別式。
・4月16日 教会で中高生向けのウェルカム集会。
・4月17日(今日、イースター) キッズイースター、礼拝後墓前礼拝。

と、いろいろな経験をさせて頂いた数週間でした。嬉しいこともあり、悲しい別れもあり、その悲しみへの慰めと励ましが与えられて、イエス様の復活の事実に希望をともにさせて頂く、そんな歩みがありました。告別式の翌日が、中高生向けのウェルカム集会ということで、気持ちの切り替えが大切だなと思って当日を迎えてみると、そこにお孫さんにあたる○○君の姿が。開催するこちらがむしろ励まされる思いになりました。

復活の喜びと、永遠のいのちを信じるクリスチャン。世間的には、「喪に服す期間」は、なるべく慎ましくする方が良いと考える方も多いと思いますし、実際、クリスチャンにもそう考える方も少なくありませんが、一方で、何がイエス様の喜びとなるかを第一に考え、ご家族にとって慰めとなり、励ましとなるかを考えてみる時に、人によってはともに楽しい時を過ごすことの方が、励ましとなる事もあります。そのような時に、そのように出来てしまうのもまたクリスチャンです。

告別式の翌日のウェルカム集会で、ともに讃美し、ともに聖書のみことばに聞き、ともにゲームを楽しみました。思いや気持ちはこれからもいろいろ通ることでしょうけれど、少しでも励みになれればと願っています。

くり返しになりますが、クリスチャンがそう出来るのは、またそうしたとしても不遜でもなければ失礼でもない、むしろ慰めとなり励ましとなるのは、やっぱり、イエス様の復活のおかげです。イエス様がよみがえらなかったなら、親しい方の死を前にして喜んだり楽しんだりといった事は、やはり失礼だし不遜な事でしょう。けれども、死は終わりではない。むしろ、神ととともにある本当のいのちの始まりなのです。私たちは、イエス様を、「昔死なれた偉い人」としてではなく、「よみがえられて、今、生きて、私たちとともにおられるまことの友」として向き合っています。だからこそ、死の先にある復活のいのちの喜びを覚えて、イースターをお祝いする事が出来るのです。

ぜひ、この喜びを、私たちとともにして頂ければ、と願っています。

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。」
ルカの福音書24章5-6節

写真:ウェルカム集会でのお菓子コーナー

 

 

 

 


2022年04月18日

受難週  藤井貴

今週は受難週です。金曜日にイエスが十字架につけられ、死んで葬られ、そして3日後の日曜日に復活されました。この復活を覚えるのが、イースター(復活祭)です。
イースターには、「イースターリリー」と呼ばれる花を飾る習慣があります。イースターリリーは、和名を「テッポウユリ(鉄砲百合)」といいます。ラッパのようなフォルムで、横向きに白い花が咲くのが特徴です。テッポウユリは日本原産のユリ科の花で、沖縄県などでは自生種が見られます。そのテッポウユリの球根は、19世紀にイギリスに持ち込まれた後、アメリカに伝わり、盛んに花が生産されるようになったといわれています。キリスト教において、白いユリは「純潔」や「復活」の象徴であり、テッポウユリが欧米に伝来してからは、それまでのマドンナリリーに代わって、イースターの飾りつけに用いられるようになった歴史があります。

 さて、前回のチャペルの窓では復活のちょうど1週前の日曜日の出来事、即ち、以下のイエスキリストが子ロバに乗ってエルサレムに入城される場面を取り上げてました。

ロバは荷物を運ぶための家畜であり、キリストが「馬」や「軍馬」ではなく、「子ロバ」に乗られたことは、「平和の主」であることを示しています。「平和の主」は人間の権力や武力によらず、神の権威と霊によって闇の世を光の支配に置かれるのです。そのことは、この後の十字架と復活により、実現していきます。十字架の死は敗北のようですが、それが罪と死に対する唯一の勝利の道なのです。

イエスキリストは私たちの罪を負って十字架にかかられました。それは私が十字架にかけたということです。2000年の時を超えてイエスは私に語りかけます。「わたしはあなたを愛するがゆえに、あたたが神から呪われ、罪のさばきを受けて滅びることに耐えられない。だから、あなたの罪のさばきを、呪いの死を、受けているのだ。」と。罪を犯さなかったイエスが、私の身代わりとなって死んでくださった。

そして、イエスは3日目に復活されます。復活がなかったら、本当に私の罪のために死なれたのかどうかわかりません。父なる神が、このイエスの死は十分であり、それを明らかにするため、よみがえされたのです。だから、私たちは確信を持って、イエスの赦しを信じることができるのです。

次週の日曜日、4月17日のイースターは阪南バイブルチャペルで!

2022年04月11日

数字に支配されない生活  辻喜男

後期高齢期を迎え、医師から体温、体重、血圧ば毎日定期的に測定し、記録するように勧められています。そこでほぼ毎日それぞれの計器を使って、測定しながら記録をするように心がけています。また一年に二回ぐらいの間隔で血液検査も行っています。そして驚くべきことにこれらの検査結果がすべて数字になって表示されます。医師が診るのもその数字が、基準よりも高いか低いかだけです。そこで服用する薬も決まってきます。数字によって健康が左右されていることに驚きます。特に血液の細かい項目まで、正確に計測ができるようになったことは、ありがたいと言うべきかも知れませんが、健康状態だけでなく人生そのものが、数字によって管理されているように考えると少し複雑です。

 というのは子どもの頃から、いろんな数字に一喜一憂しながら過ごしてきたことを思い起こすからです。小学校ではテストの結果に関わらず、楽しく過ごしていました。しかし中学、高校になると、やはりテストの結果に追われ、成績によって人間の値打ちも決まってしまうように思われました。さらに社会に出てからは、毎月に報告される営業成績を睨みながら、電卓をたたいていました。成績を上げられなかった者の恨み節が心の底に残っているのかも知れません。それにしてもテストや営業成績から解放された現在、高齢者の最大の関心事である健康状態で、またしても数字に支配され、一喜一憂しなければならないのは、喜ぶべきか、悲しむべきか複雑です。

 ただ聖書を読んでいて、人間と神との間には、時間の経過の受け止め方に大きな違いがあることが分かりました。旧約聖書には、「あなた(神)の目には、千年も昨日のように過ぎ去る」と言うことばがあったり。このことばを受けて新約聖書では、「主(神)の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と記されているからです。人間の間では、千年と一日では比較できないほどの違いがあります。しかしこれら聖書の言葉から神の判断基準と私たちの判断基準の大きな違いを教えられます。しかしこの神の判断基準を受け入れるとき、それまでの人生とは違った生き方があるように思います。数字や時間に制限され、それらに追いかけられる人生から解放される思いです。それが人間としての本来の生き方であり、神に愛され、生かされていることを感謝する生き方ではないでしょうか。
(聖書は、詩篇90:4とペテロの手紙第二3:8からの引用)

 

 

 


2022年04月04日

年度替わりを迎えて 黒田 朔

4月、新しく2022年度がスタートします。HBCは3年目、この間まで毎週のように来ていた双子のSちゃんとKちゃんと同い年。

日曜日、久しぶりに会ったSちゃん、Kちゃんはしばらく見ないうちに赤ちゃんから子供へと成長し、駆け回りお話ができるだけでなく、来月からは保育所へ行くと聞きながら、HBCの成長ぶりはどうだろうかと思います。

教会の成長はどんなところに現れるのだろうと考えます。子供のおしゃべりや駆けっこのようには表れないけれど、分かっていることは、教会に参加している人の成長抜きで教会が成長することはないことです。つまり、私が成長しなければ、HBCも成長することはありません。

2021年の目標聖句を思い出します。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」1テサロニケ5:16-18
2022年の目標聖句を心に刻みます。
「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」ヨハネ15:12
本当にHBCは成長したね・・と言いたいものです。

 

 

 

 


2022年03月29日

「モップがけをしながら」 山里 将之


みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

ウクライナの事がとても心配になる昨今です。特に、軍人ではない非戦闘員、普通の市民が犠牲になり、普通の住宅、アパートが無残にも破壊されている様子を見ると、沖縄出身の私としてはどうしても、かつての地上戦の事がまぶたの奥でシンクロしてしまいます。世代的にはもちろん、戦後生まれの私ですが、戦後の傷跡、戦地だった場所、また不発弾撤去作業・・・これは現在でも継続中・・・の光景はあちこちにあり、戦争の愚かさを噛み締めます。

 


どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
新約聖書 ローマ人への手紙15章33節

話は打って変わるように見えるかも知れませんが、今日は月に一度の教会掃除の当番。寒い間はひかえていたモップがけを、今日は久しぶりに行いました。案の定というか期待通りというか、終わってみると、バケツの水は真っ黒! でも、それだけ床がきれいになったという事でもありますから、嬉しい事です。同じ現実を、どこから見るか。同じ現実の、何を見るか。ふだん、聖書から信徒の皆さんと分かちあってきたメッセージを、自分自身にも当てはめてみて、ささやかな感謝の思いを味わいました。

ふと、神様も、私たち人間の罪を、一生懸命、掃除して下さっているような感じだなぁ、と、モップを手にしながら想像しました。実は、「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、この事を扱っていたのを思い出したんです。この映画、面白いですよ。ジム・キャリー主演で、モーガン・フリーマンが神様の役を演じていました。神様の全知全能の力に憧れた主人公でしたが、ある時、一時的に、神様から全知全能の力を預けられる事になります。まさにスーパー・パワー、奇跡的な力を得た事に喜ぶ主人公ですが、ある時、この力が、人類を正しく導き、幸せにするためのものである事に気付かされ、いろいろ苦労する事に。自分の願いを叶えるためではなく、人の幸せを実現するために、四苦八苦する主人公ですが、途中、再び神様と出会います。その神様は、ある家のモップがけをし、天井の切れた電球を取り替え、これが、自分の仕事なんだ、と説明します。人間の社会のいろいろな汚れを拭い、世界の中で壊れたところがあれば修理し、人々が幸せに暮らせるように働かれている。それが私だ、と、神様を演じるモーガン・フリーマンの姿に心打たれました。オチで、確か電球に、「光よあれ!」 “Let there be light!”と言ってた気がしますが、はて、主人公だったか・・・モーガン・フリーマン演じる神様だったか・・・ちなみに、「光よあれ」は、創世記に登場する神様のことば、全世界の創造のことばでもあります。

ウクライナで、無残な戦火の様子を見ます。瓦礫の山となってしまった、かつてはそこに、市民の喜怒哀楽が満ちていたであろう、普通の住宅を見ます。戦争を始めるのも大変でしょうけれど、戦争を終え、戦争の片付けをするのはもっと大変です。嘆き、悲しみ、憎しみや怒り、敵意、憤り・・・心と魂の後片付けは、いったい、誰が、どうやってするのでしょうか・・・。

人間の愚かさを、神様も、目の当たりにしています。今日、私たちのもとに起こった事を、神様もともに体験しておられます。私たちだけでは決して、片付かない、片付けられない、片付けられるはずもない、人生の傷、痛み、罪、その全てを、十字架という姿でご自身に、一身に、引き受けてくださったイエス様だけが、私たちの人生に、社会に、心に、魂に巣食っている汚れを拭い去ってくださる。この事を今一度、心に留めながら、祈り心とともに、モップを片付けました。真っ黒になったバケツの水を捨てて。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

旧約聖書 イザヤ書43章25節

出典元・・@映画 ブルースオールマイティより

 

 


2022年03月20日

3月2日は何の日? 藤井 貴

今年の「灰の水曜日」は3月2日で、教会暦では「四旬節」という時期に入ります。この時期は別名「受難節」とも呼ばれ、復活祭(イースター)の前日まで続く、イエス・キリスト様が十字架に至るまでの苦難の道を思い起こす期間です。「四旬」というのは「40」という意味ですから、つまり四旬節は「イエス様の苦しみを思い起こす40日間」だということです(日曜日を除く)。この日を「灰の水曜日」と呼ぶようになったのは、四旬節の初日に、前の年の四旬節でつかった棕梠(しゅろ)の枝や十字架などを焼いて灰にし、その灰を用いて神様に祈るという典礼があったことが由来だそうです。

この棕櫚の枝は、キリストのエルサレム入城のとき、民衆は「ホサナ(救ってください)!」と叫んで歓迎し、キリストが通る道に民衆の上着とともに敷かれました。そして、キリストが乗っていたのが子ロバです。なぜキリストは馬や軍馬ではなく、ロバしかも子ロバに乗って入場されたのでしょうか。絵を想像するとどう感じられますか? これは旧約聖書のゼカリアの預言の成就です。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。(ゼカリヤ書 9章9~10節)

ロバは荷物を運ぶための家畜であり、キリストが「馬」や「軍馬」ではなく、「子ロバ」に乗られたことは、「平和の主」であることを示しています。「平和の主」は人間の権力や武力によらず、神の権威と霊によって闇の世を光の支配に置かれるのです。そのことは、この後の十字架と復活により、実現していきます。十字架の死は敗北のようですが、それが罪と死に対する唯一の勝利の道なのです。

現在、阪南バイブルチャペルの聖書入門クラスでは、このエルサレム入城から始まるイエス・キリストの最後の1週間を学んでいます。ご興味のある方は是非お越しください。

 

@写真・キリストのエルサレム入城(北マケドニアのフレスコ画から)

 

 


2022年03月14日

『残日録』(藤沢周平)もどき  辻  喜 男


五年連用日記を使い始めてから四冊目になります。現在使っているのは、2018年からで今年最終年の五年目になりました。2017年の年末に新しく日記を購入する際、悩んだことを思い出します。

三年連用日記にしておいたほうが良いのではないかと考えましたが、途中で終わればそれまでのことと思い、今までと同じ五年連用日記を購入しました。2022年までこの五年間も守られて過ごしてこられたことは感謝に堪えません。ただこの四年間に書いている内容を読み、あまり変化のない毎日であったことは驚きでした。この日記の途中で、「後期高齢者」に仲間入りしましたが変化と言えばそれくらいです。聖路加国際病院の故日野原重明先生が、75歳から新しいことを始めなさいと言われていますが、何も新しいことが始まっていないことも考えさせられました。今からでも、聖書の言葉にもあるように、年齢とともに「日々新たにされていく」経験を積んでいきたいと願っています。


しかし、そのような中にも大きく変化したことがありました。孫たちの成長ぶりです。四年前に大学に入学して喜んでいた孫が、今年卒業、就職も決まりひとり住まいを始めることになりました。若い人たちの大きな変化は刺激を与えてくれます。先月開催された北京オリンピックでも、十代後半から二十代前半の孫世代の若者たちが活躍していた姿に大いに刺激を受け、新しい世代に期待しました。 

 
一方で先日、三組のシニア世代夫婦が集まり、福音宣教の夢を語り合いました。若者には負けていることを自覚しつつも、シニアにしかできないことがあると気合いを入れながら、祈りつつ散会しました。

 

 

 

 

2022年03月07日

「生きる喜びを見つける」     黒田 朔

どうしようもない厳しい現実につぶされそうになる。しかし、変えることのできない現実の中で、新しい人生を見つけた人がいる。

「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった 命より大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」


 星野富弘さん・・念願の中学の体操の先生となり、たった2ヶ月、部活の指導中、頚髄損傷で肩から下は完全麻痺、「口から入れて、尻から出すだけの土管のような人生、生きていて何になる。」しかし、自殺さえできない体になって、星野さんの心に高校時代の友人が置いて帰った聖書のことばが残りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)


その時、「私は聖書のほんの一部しか、それもほんの上っ面しか分かっていなかったが、『私の所に来なさい』と言うキリストの言葉に素直についていきたいと思った。私の今の苦しみは洗礼を受けたからと言って少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、赦せなかったり、そういう醜い自分を忍耐強く赦してくれる神の前にひざまずきたかった。・・罪を犯すかもしれない、苦しいとわめき散らすかもしれない、でも『父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです』と十字架の上から言った清らかな方にしたがって生きてみようと思った」。(星野冨広著「愛、深き淵より」より)
その時、星野さんの心が変わり、この詩が生まれました。「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった 命より大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」指一本動かせない体で「確かに体が動かないことは不自由です、でも不幸とは違います。」と話す星野さんに人生を喜びとする生き方を見せて貰いました。

 

 


2022年02月28日

弱い時こそ 山里 将之

みなさん、こんにちは!貝塚聖書教会の山里将之です。

長引くコロナとの戦いのストレスのためか、また特に、去年末に大切な家族との別れがあったためか、このところ、気持ちの落ち込みからなかなか立ち直れず、我ながらメンタルが弱ってるな、という状況を経験をしています。おかげさまで、身体の方、フィジカルの面では支えられ、コロナからも今のところ護られて、肉体的には元気にしているのですが、良く聞くように、「別離の淋しさやその疲れは遅れてやって来る」というのは本当だな、と思います。

「信仰を持てば、神様の護りの中で心も体も強められて、どんな事があっても大丈夫」と、私たちは思いやすいかも知れませんし、またそうありたいと願い、期待するかも知れません。かく言う私自身も、神様の事を伝える立場、牧師のひとりですから、できれば早く、こうした疲れや淋しさ、心の痛みから立ち直りたいものだなぁと願っています。

ただ、自分ではどうにも出来ない疲れや痛み、弱さというのもまたあって、「信仰を持ってるのに、どうしてかなぁ」と考えさせられる事もあります。とりわけ牧師をしていると、ふだんは信徒の皆さんを慰めたり励ましたりするポジションにいる事が多いので、なんだか勝手に「ふだんはあんな事言ってるのに、なんだか、面目ないなぁ」とか、どこかしら「すまないなぁ」という思いになったりする事もあります。

ただ、聖書を読んでいると、イエス様は別として、そこに登場する預言者たちや王たち、またイエス様のお弟子さんたちや使徒たちは、みんな、自らの弱さ、痛み、そして罪深さを抱えたまま、ただ恵みと憐れみによって、神様に用いられて来た人ばかりだな、という事も教えられます。いやむしろ、聖人君子でも何でもない、立派でもなく、きよらかでもなく、強くもない、たま〜に頭のいい、賢い人は見かけるけれど、清廉潔白というような人はほとんどいない、そんな、私たち普通の人間と何も変わらない生身の人々が、ただただ神様の愛に触れ、その愛に生かされ、慰められ、励まされ、ときに叱咤激励を受け、赦しと感謝の涙の中から再び用いられていった、そんな人ばかりだなぁと気付かされます。

使徒パウロが、コリント人への手紙、第二、12章7-9節でこんな事を書いています。

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

私たちが、強い時、賢い時、何か素晴らしい啓示を頂いて、神様のみわざを目撃した時、私たちは、高慢になりやすいという危険、誘惑にさらされているのだと気付かされます。パウロは、そうならないために、神様から「肉体に一つのとげを与えられました」と言います。何かの病気になっていたのかも知れないと言われています。とりわけ、視力に弱さがあったのではないかと言われています。パウロは、その弱さを誇る、とまで語っています。

私たちは、できれば、弱さなんて経験したくないですし、しないで済むならそれに越したことはありません。でも、弱い時こそ、神様に助けて頂くしか他にない、という経験をさせて頂くチャンスでもあります。弱い時こそ、同じ弱さや悩み、苦しみ、淋しさ、疲れ、痛みを味わっている人と、心を寄り添わせる事が出来る、本当の慰め相手になれるチャンスでもあります。弱い時こそ、神様の恵みが十分に与えられ、神様の力が完全に現れるチャンスなのだ、と神様はパウロに告げました。

牧師をしている私自身が今、なんだか、なかなかシャンと出来ない、心の痛みを引きずっている日々が続いています。出来れば早く、抜け出せたら良いなと願っています。しかし一方で、聖書というメガネを通して世界を見てみると、牧師自身が弱さを経験し、弱さを知っているという事は、同じように弱さを抱えて生きている人々とともに生きる上で、大切な事だな、と教えられます。その上で、なお、早く元気になりたいな、と願いつつ。

写真:コロナに負けず、寒さにも負けず、今年も梅の花が開きます。

 

 


2022年02月21日

「父の愛」ー続編ー藤井 貴

前回は「放蕩息子」であった弟への父の愛でしたが、今回はその兄の話です。

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。(ルカの福音書 15章25~28節前半)

放蕩した弟とそれを喜ぶ父に対し、喜んでいない存在が浮き彫りにされています。兄は喜ぶどころか怒りをあらわにします。

それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』(ルカの福音書 15章28後半~30節)

兄は面白くない。理由は、自分はずっと父に仕えてきたという自負。私の奉仕、私の努力、そして、自分は正しいと。弟と呼ばずに「そんな息子」と言って弟への愛を持つことはできないでいます。まさに、「自分が父から愛されている」ことがわかっていないのです。ずうっと父と一緒にいても、その愛を理解できないでいるのです。

父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」(ルカの福音書 15章31~32節)

そんな兄に対しても、弟に対してと同じく、父は兄息子を迎えに出ます。そして父から声をかけます。弟と同じように愛しているのです。そして、「おまえの弟」と言って、弟を受け入れるように諭すのです。
この兄のケースも、前回の弟のケースと同様、

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。(ルカの福音書 15章1~2節)

ことへの答えです。
文句を言う当時の宗教の指導者たちも、父(神)の愛を理解していなかったのです。私たち(そして、私は)はどうでしょうか。
父である神は、罪人たちを含め宗教の指導者も、そしてすべての人を受け入れ、無条件に愛してくださいます。そして、私たち罪人が神のもとに帰るのを待ち続けておられるのです。

 

 


2022年02月14日

部屋の模様替え 辻 喜男

今年になって思うところがあり、部屋の模様替えをしました。
そこで見えてきたことは、要らないもの、使っていないものがたくさんあるということ、そして棚や机を移動することで、埃がたまっていたことでした。こんなにも使っていないものと埃に囲まれていたのかと愕然としました。そこで早速掃除をして、要らないものを捨てました。それよりも場所を移動することで、同じ部屋でもいつもと違う方向から見ると、新鮮に映ったことです。模様替えによって部屋を見る角度が変われば、新しい発見もありました。
そんなことを考えながら、ふと、人間関係についても同じようなことが言えるのではないかと考えました。心に残っていた聖書の言葉を思い出しました。

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」(マタイの福音書7:12)


聖書の黄金律と言われている教えです。神からお互いに良いものを受け取っている者として、自分も他の人に良いものを与えるようにと教えられています。自分中心の見方でなく、人への思いやり、心遣いの大切さを教えられました。

 

 


2022年02月07日

種まきの勧め        黒田 朔

以前、ハワイに住んでいた頃、牧師館の裏に小さな、小さな庭があった。ある時、教会のメンバーが「家でできたパパイヤをどうぞ」と届けてくださった。「こんな口当たりのやわらかで、甘く、みずみずしいパパイヤ初めて!」パパイヤのイメージが変わるほど美味しかった!お礼を言うと「私も頂いたので、その種を庭に植えたら出来たのですよ」とのこと。

 

早速、種を庭に蒔いた。パパイヤの小さな種を植えただけで、庭が変わった。朝夕庭を見るのが楽しみとなった。結局、期待していたイメージチェンジのパパイヤはなることなく終わったが、今も、種を蒔き、苗を植えると小さな庭を思い出す。種を蒔けば庭が変わる・・パパイヤだけではない、自分自身の生活に、友との付き合いに、一粒の小さな種を蒔いて見ればどうだろう。「蒔かぬ種は生えぬ」と言うが、蒔けば小さくても、楽しみの芽が出るに違いない。

 

 

 

 

2022年01月31日

「 廻り道  」 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

出かける時、私はほとんど車を使うので、電車やバスに乗ることがめったにないのですが、皆さんはいかがでしょうか。そんな私が先日、本当に久しぶりにバスに乗りました。それも、普通のバスよりうんと小さい、コミュニティーバス。たまには良いか、と思い、また免許を取る前の学生、子どもに戻った気分で、半分わくわくしながら。

ところがしばらくすると、バスが私が想像していたルートとは反対方向に向かっているようで、思わず「間違えた!」と思ったのですが、実は間違えていたのではなく、そういうルートだったんだと初めて分かりました。ヒヤーっとした思いから一転、「こんなルートもあるんだなぁ」「こんな風景がこの町にあったのか」「なんか、得した〜」という気分になりました。

無事に目的地に着く。これが本当に大切だなぁと思います。最短ルートとは言わないまでも、自分の想定していたルートと違っていると、ヒヤーっとしてしまう事がある。でも、どんなに最短ルートだと思っても、どんなに自分では良いルートだと思っていても、目的地にたどり着かなければ意味はない。逆に、目的地さえ見失わず、しっかりそこにたどり着けるなら、途中で通った廻り道も、「なんか、得した〜」と思える。そう思えたのは、無事に目的地に着いたから。コミュニティーバスの運転手さん、ありがとう!

人生もそうだなぁと思わされます。私自身を振り返ってみると、自分の想定していたルートと違った物事の進み方と直面した時、ヒヤーっとして来たなぁと思います。今でも繰り返し失敗してしまうのですが、自分の想定にあわせよう、直そう、としてしまう事。結果的に、直るどころかますます「道に迷う」事にも。その度ごとに、途中経過は自分の願い通りでなかったとしても、神様が導くゴールを見失わない事の大切さを思わされ、悔い改めるわけです。

モーセに導かれた出エジプトの民、イスラエルは、約束の地カナン、まさしく今のイスラエル国がある地域にやって来るまでに40年間、荒野を旅しました。地図で確認すると分かるのですが、エジプトからイスラエルまでは直線でだいたい500km前後。カイロからエルサレムですと400kmちょっと。阪南からですと静岡くらいあたりの距離になるらしいです。近くはありませんが、40年なんてかかりません。「ものすごい遠回りしたなぁ」と感じるかも知れません。でも、それが結局は、約束の地に入るために必要な、大切な訓練にもなっていました。40年の旅の中で、人々は、定住生活では味わえない神様の護り、その恵みの確かさを味わったわけです。


わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに来ることはありません。(聖書 ヨハネ14:6)

イエス様を信じる道は、信じれば願いがかなうという道ではないかも知れません。たとえば希望の大学に合格する道ではないかも知れません。信じれば商売が繁盛する道ではないかも知れません。大好きなあのひとを振り向かせ、恋愛がみのり、人間関係がたちどころに改善する、そういう道ではないかも知れません。けれども、私たちを幸せにしようと今日も私たちを導き続けて下さる、父なる神様への道、本当の幸せへの道です。

ついつい、最短ルートを望んでしまいやすい私です。こっちが最善のルートだと勝手に想定して、そこから外れると焦ってしまいやすい。皆さんはいかがでしょうか。でも、振り返ってみると、廻り道に見えて実は、大切な恵みを教えられる、「主の道」だった。後から振り返ってそう思えたなら、廻り道こそ、実は本当の意味での最短・最善の道だったと実感させられたら感謝ですね。

 

 


2022年01月23日

「父の愛」 藤井 貴


この絵はレンブラントの「放蕩息子」です。この「放蕩息子」は聖書「ルカの福音書15章」に記されたイエスの譬えを材題にしたものであり、他にも多数の絵が描かれている。それほど有名な譬えですので、読まれた方も多いのではないでしょうか。
この譬えには3人の登場人物がおり、放蕩息子(弟息子)の他に、その兄、ふたりの父です。そして、その父が譬えの主役です。
弟息子は父が生きているとき、自分の相続財産を要求しました。それは、「あなたは私にとって死んだも同然、これからはあなたの保護を受けずに生きていく。」と父に宣言しているかのようです。そして、もらった財産を持って遠い国に出て行き、その財産を湯水のように使い果たした後、飢饉にみまわれるのです。

何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。(ルカの福音書15章14~16節)

その時、

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』(同17~19節)

彼が父のもとに帰ったとき、

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。(同20~24節)

ここで「一番良い衣」は地位の回復、「指輪」は権限の移譲、「履き物」は自由人の印であり、この弟息子が子どもとして受け入れられた証です。父(神)から離れていった自分勝手な弟息子(罪深い私たち)をそのまま受け入れ、相続人として宣言してくださったのです。この譬えが語られた背景が1-3節に記載されています。

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。(同1~3節)

すなわち、当時の宗教指導者がイエスは「罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」との文句に対するイエスの答えなのです。父である神は罪人たちを含め、すべての人を受け入れ、無条件に愛してくださいます。そして、私たち罪人が神である父のもとに帰るのを待ち続けておられるのです。次回は兄息子に焦点をあてたいと思います。

 

 


2022年01月17日

「逆転人生」      辻 喜男

大相撲のテレビ中継をいつも楽しみに見ています。奇数月の十五日間にわたる取り組みの中で、私が見るのは五時頃から六時までの六十分ほどですが、力士たちの熱い戦いに力が入ります。
 去年、白鵬関と鶴竜関が引退したことによって、照ノ富士が「ひとり横綱」となりましたが、まじめに横綱の責任を果たしている照ノ富士を密かに応援しています。ご存じのように照ノ富士は、先の大関時代の取り組みで怪我をし、一度は序二段まで陥落しました。しかし怪我と戦いながらも努力を重ね番付を這い上がり、ついに横綱まで上り詰めました。両膝のサポーターに痛々しさを感じながらも、土俵入りと取り組みができていることに安堵しています。それにしても彼のように番付を上下した力士は今までもいなかったように聞いています。上下関係の厳しい相撲界で、番付の上位から下位に陥落した時の悔しさと厳しさに耐えた精神力に驚かされます。まさに逆転人生を絵に描いたような相撲人生ということができます。
 逆転人生と言えば、聖書にも同じような経験をした人物がいます。旧約聖書「ヨブ記」の主人公、ヨブという男です。彼は神を信じ、潔白に生きていた人であり、さらに十人の子どもと多くの財産を持つ富豪でもありました。ところが突然の災害や敵の襲撃にあい、子どもと財産を失ってしまいました。さらに自分自身も悪性の腫物におかされて、これ以上にないほどの苦しい経験をすることになりました。
 しかし彼はその苦しみの中から、自らの思い上がりを知らされ、改めて神を見上げることを学びました。すべてを失ってただ神に頼るほかなかったのです。人生のどん底で神への信仰に目が開かれたのです。そのときから彼の人生が神の祝福に満たされました。苦しみにあう前と同じ数の子どもが与えられ、また財産は以前に増して与えられました。彼が味わった痛みと苦しみの経験は、本人にしか分かりません。しかしその経験を通して、ヨブはもう一度神に立ち返ることができたのです。そこに彼の逆転人生の秘訣がありました。このように多くの人が神を見い出すことで、新たな希望と前進する力と意欲が与えられました。あなたも新しい人生を期待して、聖書を読んでみませんか。

2022年01月10日

新年明けましておめでとうございます。     黒田 朔

世界中が新型コロナオミクロン株で揺れている中、日本では比較的抑えられ、穏やかな正月を迎えていることは幸いですが、「いよいよ新しく」とは言うよりは、「一日も早い終息」を求める年始めを迎えています。年始めの期待が前進と言うよりは、事後処理という何とも残念な新年です。しかし、人生には「前進」に心を燃やすよりは「事後処理」に心身を消耗する時があります。
しかし、そんな私たちに神は

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント 5:17)と語られます。

ここでの「新しく」は「再度、事後処理が必要となるかもしれない新しさ」ではなく「今までとは違った別の種類の」と言う意味の「新しさ」です。
色々な暗いニュースが飛び交う中で「時代が変わり、世が変わるとも、頼りうるは我が身一つ」と肩をいからせて生きて来た人生に

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)とのニュースを「私への知らせ」と受け留めるとき、その「新しさ」があなたを変えます。

暗いニュースの多い年明けを「今までとは別の種類の」年明けを迎える新年2022年としたいものです。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ 43:18、19)

 

 

写真↑ ガリラヤ湖に昇る朝日

 

 


2022年01月03日