平和への願い  山里將之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

私の故郷、沖縄では、全国に先駆けて6月23日に終戦の日を迎えます。全国的にはポツダム宣言受諾の8月14日の翌日、玉音放送が行われた8月15日をもって終戦の日としているわけですが、沖縄では組織的地上戦が終結した6月23日の方に重きを置く傾向があります。混同を避けるために「慰霊の日」とも呼ばれています。

そんなわけで、沖縄では6月を迎えると平和について考える機会が増えます。さらに、全国と同じく8月にも平和学習を持つ機会が多いので、年に2回、平和への願いを新たにする月が訪れる事になります。

そんな沖縄出身の私ですから、ウクライナとロシアのニュースには本当に心痛むものがあります。77年前の沖縄戦とは当然、時代も地形も戦況も兵器も異なりますが、非戦闘員、一般市民が巻き込まれ、弱き者、小さき者が蹂躙される姿にはあまりにも似通ったものがある事を感じます。本当にいち早く、この戦争が終わることを願いつつ。

戦争について、平和について、考える時、いつも参照される聖書のことばがあります。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(マタイ5:9)

平和とは、待っていれば自然に向こうから訪れるというようなものではない。ひとりひとりのたゆまざる努力でつくり出すものだ。そのようにする者たちは幸いだ。神の子どもとはこういう人々の事だ。こう、イエス様はおっしゃいます。

あわせて覚えたいのは、

「…最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです…」
(マタイ25:40)
「…最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ…」
(マタイ25:45)

戦場では特にそうですが、戦場ではなくても、身近なところで、たとえば、家庭や学校で、「最も小さな者たちの一人」といった人々は、何かとつらい思いをしやすいと思います。気をつけないと私たちも、「最も小さな者たちの一人」に、どんな態度を取り、どんなことばや思い、視線を向けているか、問い迫られる事でもあります。イエス様はおっしゃいます。小さき者、取るに足りない者、つまらない者とされているような人々に、あなたが取った言動は、わたしに対して取った言動だ、と。

どんな人に向き合うときにも、どんな事に取り組むときにも、神様に向き合っている事を心に留め、自分の言動は神様に対してなされているのだという自覚を失わない事。平和をつくる者としての大切なヒントだなと思います。

ウクライナ、ロシアの平和のため、ともにお祈り頂けると幸いです。そして、もっと身近なところでも、私たちひとりひとりが、平和をつくる者として、成長して行きたいと願わされます。

写真:NPO法人メタノイアより。出典URL https://metanoia.or.jp/2297/

2022年06月20日