平安を願う人々の史跡 山里 将之

みなさん、こんにちは!
貝塚聖書教会の山里将之です。

幼い頃、考古学が大好きだった私は、エジプトのピラミッドの話や中南米のマヤ、アステカ、インカ帝国の話が大好きでした。今でも歴史的建築物を訪ねる、いわゆる史跡めぐりがけっこう好きだったりします。今年のお正月休みには家族で京都を訪れ、平等院鳳凰堂にも足を運びました。もちろん、クリスチャンですし、まして牧師ですから、参拝目的ではないですよ(笑)。

Wikipedia で調べてみると、平等院は、西暦で1052年=永承7年に、藤原頼通によって開基されたという事です。当時の社会では、末法思想という、いわゆる“世界の終わり”のような思想が広がっていたようで、この世界に極楽を再現しようとして開かれた寺院のひとつであったそうです。実際、訪れてみると、壁画や彫刻、陶器の装飾などには、“あの世”とか“来世”をモチーフにした作品が多く、“天部”と呼ばれる一団が大日如来を讃えて楽器を奏でたり歌を歌っていたりする、そんな光景が形づくられていました。なんだか、キリスト教の終末論、とりわけ、ヨハネの黙示録の世界と、おどろくほど共通するような世界観に、たいへん驚かされました。

世の中に不穏な状況や出来事が増えていく中で、“世界が終わってしまうのではないか”と案じる人間心理(真理)と、だからこそ、来たるべき世界に願うその願いの中身は、人間である限り、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、また、国籍や文化、時代を問わず、だいたい似通ってくるものだな、とあらためて思わされます。

一方で、だからこそ、本当の神様、この世界が終わろうとも、なお私たちとともにいてくださると宣言し、そのようにして下さるイエス様を知っているかいないかは、大きな違いだな、と思います。

約1000年ほど前に、末法思想、キリスト教風に表現するなら“世の終わり”を感じながら、平等院を開いた藤原頼通ならびに当時の人々が、イエス様を知っていたら、きっとまた違った人生観、世界観が広がっていたのではないか、と思いを馳せました。

・・・見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

マタイの福音書28章20節後半、復活なさったイエス様が弟子たちに宣言された、力強く、温かく、愛に満ちたみことばです。

春間近。ちょうど、四旬節(レント)、イエス様の復活を記念するイースターが迫る季節を過ごしています。この春、あなたも、まことの平安を与えて下さるイエス様を心にお迎え下さい。

写真:鳳凰堂↓と十円玉↑。

2023年03月12日