弱い時こそ 山里 将之

みなさん、こんにちは!貝塚聖書教会の山里将之です。

長引くコロナとの戦いのストレスのためか、また特に、去年末に大切な家族との別れがあったためか、このところ、気持ちの落ち込みからなかなか立ち直れず、我ながらメンタルが弱ってるな、という状況を経験をしています。おかげさまで、身体の方、フィジカルの面では支えられ、コロナからも今のところ護られて、肉体的には元気にしているのですが、良く聞くように、「別離の淋しさやその疲れは遅れてやって来る」というのは本当だな、と思います。

「信仰を持てば、神様の護りの中で心も体も強められて、どんな事があっても大丈夫」と、私たちは思いやすいかも知れませんし、またそうありたいと願い、期待するかも知れません。かく言う私自身も、神様の事を伝える立場、牧師のひとりですから、できれば早く、こうした疲れや淋しさ、心の痛みから立ち直りたいものだなぁと願っています。

ただ、自分ではどうにも出来ない疲れや痛み、弱さというのもまたあって、「信仰を持ってるのに、どうしてかなぁ」と考えさせられる事もあります。とりわけ牧師をしていると、ふだんは信徒の皆さんを慰めたり励ましたりするポジションにいる事が多いので、なんだか勝手に「ふだんはあんな事言ってるのに、なんだか、面目ないなぁ」とか、どこかしら「すまないなぁ」という思いになったりする事もあります。

ただ、聖書を読んでいると、イエス様は別として、そこに登場する預言者たちや王たち、またイエス様のお弟子さんたちや使徒たちは、みんな、自らの弱さ、痛み、そして罪深さを抱えたまま、ただ恵みと憐れみによって、神様に用いられて来た人ばかりだな、という事も教えられます。いやむしろ、聖人君子でも何でもない、立派でもなく、きよらかでもなく、強くもない、たま〜に頭のいい、賢い人は見かけるけれど、清廉潔白というような人はほとんどいない、そんな、私たち普通の人間と何も変わらない生身の人々が、ただただ神様の愛に触れ、その愛に生かされ、慰められ、励まされ、ときに叱咤激励を受け、赦しと感謝の涙の中から再び用いられていった、そんな人ばかりだなぁと気付かされます。

使徒パウロが、コリント人への手紙、第二、12章7-9節でこんな事を書いています。

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

私たちが、強い時、賢い時、何か素晴らしい啓示を頂いて、神様のみわざを目撃した時、私たちは、高慢になりやすいという危険、誘惑にさらされているのだと気付かされます。パウロは、そうならないために、神様から「肉体に一つのとげを与えられました」と言います。何かの病気になっていたのかも知れないと言われています。とりわけ、視力に弱さがあったのではないかと言われています。パウロは、その弱さを誇る、とまで語っています。

私たちは、できれば、弱さなんて経験したくないですし、しないで済むならそれに越したことはありません。でも、弱い時こそ、神様に助けて頂くしか他にない、という経験をさせて頂くチャンスでもあります。弱い時こそ、同じ弱さや悩み、苦しみ、淋しさ、疲れ、痛みを味わっている人と、心を寄り添わせる事が出来る、本当の慰め相手になれるチャンスでもあります。弱い時こそ、神様の恵みが十分に与えられ、神様の力が完全に現れるチャンスなのだ、と神様はパウロに告げました。

牧師をしている私自身が今、なんだか、なかなかシャンと出来ない、心の痛みを引きずっている日々が続いています。出来れば早く、抜け出せたら良いなと願っています。しかし一方で、聖書というメガネを通して世界を見てみると、牧師自身が弱さを経験し、弱さを知っているという事は、同じように弱さを抱えて生きている人々とともに生きる上で、大切な事だな、と教えられます。その上で、なお、早く元気になりたいな、と願いつつ。

写真:コロナに負けず、寒さにも負けず、今年も梅の花が開きます。

 

 


2022年02月21日